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明治・大正期の洋画家 東京美術学校名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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洋画家。佐賀の生まれ。邦武(くにたけ)の長子。初め藤雅三(ふじまさぞう)に洋画を学び、1886年(明治19)渡仏して外光派のラファエル・コランに黒田清輝(せいき)とともに師事。帰国の翌年(1894)黒田と天真道場を開き、96年東京美術学校に新設された西洋画科では、黒田の実技指導に対して美術解剖学、考古学を講じたが、しだいに制作からは遠ざかった。文展審査員、帝国美術院幹事(1922~31)のほか、各国の万国博覧会用務での外国出張も多く、美術行政家、教育家としての貢献が大きかった。東京都品川区に、父邦武の作品もあわせ収める久米美術館がある。
[小倉忠夫]
1866.8.8~1934.7.27
明治~昭和前期の洋画家。肥前国生れ。はじめ藤雅三(まさぞう)に師事。1886年(明治19)パリに留学,黒田清輝とともにラファエル・コランに学ぶ。93年に帰国し,翌年黒田と天真道場を設け,96年には白馬会を結成。外光派の画風で後進の指導にあたった。裸体画擁護論を展開し,96年東京美術学校に新設された西洋画科では西洋考古学や美術解剖学を教授。後年は制作から離れ,美術教育・美術行政に尽力した。
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…外国においてはヨーロッパの内外を問わず,広く印象主義を吸収する動きがあり,それぞれの国の美術の特質に従ってさまざまに翻訳された。後期印象派新印象主義【馬渕 明子】
[印象主義と日本の近代美術]
日本における印象主義の導入は,1893年(明治26),黒田清輝,久米桂一郎(1866‐1934)がフランスから帰国して画壇に新風をもたらしたことに始まる。黒田の渡仏は1884年,久米は86年で,後者の渡仏年に印象派グループの最後の展覧会が開かれた。…
…滞仏末期の90‐92年,パリ郊外のグレー村に滞在し,《読書》《婦人像(厨房)》などを制作,93年パリの春のサロンに《朝妝(ちようしよう)》(焼失)を発表し帰国した。96年,滞仏時代からの僚友久米桂一郎(1866‐1934)や周辺に参集した若い画家たちとともに白馬会を結成,同年東京美術学校西洋画科新設のときその指導を委嘱され,98年教授に就任した。コランに学んだ画風はフランス・アカデミスムと印象派的表現を折衷したもので外光派とよばれ,既存の明治美術会系の硬化した写実主義的作風と対立し,旧派に対して新派,陰影部の描写法から脂(やに)派に対して紫派ともよばれた。…
…1902年パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)教授となり,09年にはフランス学士院会員に任命されたが,第1次大戦中にノルマンディーで死去した。《花月》が機縁となって,滞仏中の日本の画家藤雅三,黒田清輝,久米桂一郎(1866‐1934)などを指導,彼らをとおしてその外光描写の作風(外光派)は明治中期以降の日本洋画に大きな影響を与えた。【陰里 鉄郎】。…
… ブーグロー,カバネルのアカデミストにつき,バスティアン・ルパージュの外光描写をとり入れた折衷様式の画家R.コランが黒田の師であった。黒田は帰国後,久米桂一郎(1866‐1934)と天真道場を設立し,外光派の明るい写実主義の画風と,フランス・アカデミズムの基礎技術を伝え,96年にはようやく東京美術学校に増設された西洋画科の主任教授となる(助教授は岡田三郎助,藤島武二)。また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体白馬会を結成,主宰する。…
※「久米桂一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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