朝日日本歴史人物事典 「山田重忠」の解説
山田重忠
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。清和源氏の源満政の子孫。一族は美濃,尾張に広く分布し力を持った。父の重満は養和1(1181)年,源行家と共に墨俣川で平家と戦い討死している。また近親者の重隆は美濃国の公領の侵害を企てた咎で,建久1(1190)年に常陸国に配流された。これは美濃源氏の勢力を削ぐための,鎌倉幕府による陰謀であったらしい。重忠は尾張国山田郡に住し,後鳥羽上皇に仕えた。承久の乱(1221)では京方につき,美濃国杭瀬川,近江国勢多に奮戦するが敗北。北条義時追討宣旨を撤回する上皇を激しく非難し,子重継と共に嵯峨に退去。同地で自害した。重継も捕らえられ斬られたが,このとき31歳だったという。<参考文献>『愛知県史』別巻
(本郷和人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報