藤原光親(読み)ふじわらのみつちか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原光親」の意味・わかりやすい解説

藤原光親
ふじわらのみつちか
(1176―1221)

鎌倉時代前期の中流貴族。父は藤原(葉室)光雅、母は藤原重方(しげかた)の娘。葉室光親(はむろみつちか)とも呼ばれる。蔵人頭、右大弁、参議などを歴任し、1211年(建暦1)に権中納言となる。1213年(建保1)以降は按察使(あぜちし)を兼任し、按察中納言と称される。若年のころは近衛家(このえけ)に仕えていたが、のちに後鳥羽上皇の厚い信任を得て、上皇およびその子の順徳上皇に仕えた。妻や娘の1人は、順徳上皇の乳母でもあり、両上皇との関係が深かった。1221年(承久3)に後鳥羽上皇が幕府打倒の兵を挙げた、いわゆる承久の乱の際には、挙兵を諫める手紙を上皇に差し出したと伝えられるが、北条義時追討の宣旨(せんじ)を発給したこともあって、乱後は乱の張本人として幕府方に捕らえられた。関東に護送される途中、7月12日に幕府の命により駿河国加古坂(かごさか)(現、籠坂峠)において斬首された。死の直前に出家し、法名を西親(さいしん)という。子息に、歌人として著名な光俊(出家して真観と名のる)や、後嵯峨上皇に仕えて活躍する定嗣(さだつぐ)などがいる。

[高橋慎一朗]

『本郷和人著『中世朝廷訴訟の研究』(1995・東京大学出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原光親」の意味・わかりやすい解説

藤原光親 (ふじわらのみつちか)
生没年:1176-1221(安元2-承久3)

鎌倉初期の公卿。葉室(はむろ)光親とも称する。父は藤原光雅,母は藤原重方の娘。1211年(建暦1)正三位権中納言,17年(建保5)正二位となる。後鳥羽院院司を務めたため,上皇の討幕計画に反対しながらも北条義時追討の宣旨を執筆することとなり,承久の乱(1221)後謀臣として関東方に捕らえられ,鎌倉に連行される途中の駿河で斬られた。法名を西親という。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原光親」の解説

藤原光親

没年:承久3.7.12(1221.8.1)
生年:安元2(1176)
鎌倉前期の公卿。権中納言正二位。権中納言光雅と右大弁藤原重方の娘との子。有能な実務官僚で,後鳥羽上皇の無双の寵臣といわれた。近衛家に仕えたが,元久年間(1204~06)ごろ近衛基通と不和になり,後鳥羽上皇に接近して近臣となった。後鳥羽院中の雑務を取り仕切って伝奏を務め,後世,院の執権は光親に始まるといわれた。上皇の愛妃修明門院の年預となり,順徳上皇の執事となるなど修明門院や順徳の側近ともなった。妻の従三位経子(中納言典侍,藤原定経の娘)と娘の満子(大納言典侍)は順徳の乳母であった。承久の乱(1221)に深くかかわり,北条義時追討の院宣を書いたが,後鳥羽上皇の無謀を諫めたともいう。乱後,首謀者のひとりとして処刑された。

(秋山喜代子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原光親」の解説

藤原光親 ふじわらの-みつちか

1176-1221 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
安元2年生まれ。藤原光雅の長男。母は藤原重方の娘。承元(じょうげん)5年(1211)権(ごんの)中納言となり,のち正二位。後鳥羽(ごとば)院の年預別当,順徳院の執事別当をつとめた。承久(じょうきゅう)の乱に際し,北条義時追討の院宣を作成。乱後関東へ連行され,承久3年7月12日駿河(するが)(静岡県)籠坂峠で斬首(ざんしゅ)された。46歳。葉室(はむろ)光親とも。法名は西親。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原光親」の意味・わかりやすい解説

藤原光親
ふじわらのみつちか

[生]安元2(1176)
[没]承久3(1221).7.12. 駿河
鎌倉時代初期の公卿。権中納言,按察使,正二位。後鳥羽上皇の寵臣として仕え,承久3 (1221) 年の承久の乱の罪により斬首。著書『心言記』。

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