日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原秀康」の意味・わかりやすい解説
藤原秀康
ふじわらのひでやす
(?―1221)
鎌倉初期の武士。後鳥羽院(ごとばいん)の近臣で、西面(さいめん)・北面(ほくめん)・滝口(たきぐち)の武士などを勤めた。父は河内守(かわちのかみ)秀宗(ひでむね)。母は伊賀守(いがのかみ)源光基(みつもと)の女(むすめ)。紫宸殿(ししんでん)をはじめ鳥羽殿の厩(うまや)など諸殿舎造進の功をたてて院の信任を得、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、美作(みまさか)、越後(えちご)、若狭(わかさ)、淡路(あわじ)、伊賀(いが)、河内(かわち)、能登(のと)など諸国の国守となり、衛府の官を歴任した。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱にあたっては総大将に任ぜられ、弟秀澄(ひでずみ)とともに院方の軍勢を率いて戦った。秀康は在京中の御家人(ごけにん)三浦胤義(たねよし)を味方に引き入れ、その兄三浦義村(よしむら)と連携して執権北条義時(よしとき)を討つ計画をたてた。胤義は院宣に従い畿内(きない)の兵を集め京都守護伊賀光季(みつすえ)を急襲。秀康は義村に院宣と胤義の書状を送って義時追討を促したが、義村はこれに応ぜず、幕府を支持し逆に幕軍を西上させた。秀康は尾張川、宇治川と、もろくも防戦に失敗。逃亡したが同年10月河内国讃良(さんら)(大阪府寝屋川(ねやがわ)市)で捕らえられ、六波羅(ろくはら)に送られて斬殺(ざんさつ)された。
[田中博美]