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鎌倉初期の天皇(在位1221~32)。名は茂仁(ゆたひと)。後鳥羽(ごとば)天皇の兄守貞(もりさだ)親王の第3子。母は藤原基家(もといえ)の娘北白河院(きたしらかわいん)陳子。1221年の承久(じょうきゅう)の乱後、仲恭(ちゅうきょう)天皇が廃されたあと、親幕派の西園寺公経(さいおんじきんつね)の推挙と幕府の支持により還俗(げんぞく)させられて即位。このとき、父守貞はすでに出家しており(行助法親皇(ぎょうじょほうしんのう))、かつて皇位についたこともなかったが、後高倉院(ごたかくらいん)として異例の院政を開始した。後堀河は32年、2歳の子に譲位し(四条(しじょう)天皇)、自らも院政を行った。天福(てんぷく)2年8月6日死去。墓は京都市東山区今熊野泉山(いまくまのいずみやま)町の観音寺陵。
[川島茂裕]
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1212.2.18~34.8.6
在位1221.7.9~32.10.4
後高倉院の王子。名は茂仁(ゆたひと)。母は藤原基家の女北白河院陳子。承久の乱ののち鎌倉幕府は仲恭天皇を廃し,十楽院仁慶僧正の弟子となっていた茂仁を天皇,父を上皇とした。即位当初は父の院政であったが,父の死後,1223年(貞応2)から親政となる。32年九条道家の女竴子(しゅんし)との間に生まれた四条天皇に譲位し院政を行った。
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…歌数1374首。1232年(貞永1)に後堀河天皇の勅により編纂に着手したが,上皇の他界を悲しみ稿本を焼却したり,再度の作業過程中にも,対幕府関係をおもんばかる関白道家・教実父子の意向により100首余(おそらく後鳥羽院らの歌)を切り出すなどの経緯を経て,35年(嘉禎1)成立。定家執筆の仮名序には,勅撰集のあるべき姿への信条を読み取れるが,内容的には,俊成,良経,家隆,西行ら新古今歌人以外,親幕派の公家藤原道家,西園寺公経や源実朝,北条泰時ら武家の歌が多く,〈宇治川集〉の異名を得たり,承久の乱関係者の歌が除かれるなどの面があった。…
※「後堀河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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