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藤原定家 ふじわらの ていか

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美術人名辞典の解説

藤原定家

鎌倉前期の歌人・公卿。俊成の子。初名は光季・季光。京極黄門と称し、薙髪して明静という。『新古今和歌集』新勅撰和歌集』を撰する。正二位権中納言に至る。主な著に『詠歌大概』『明月記』等があり、『千載和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』『新拾遺和歌集』等諸集にその歌を収める。歌学歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残した。仁治2年(1241)歿、79才。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐さだいえ〔ふぢはら‐さだいへ〕【藤原定家】

ふじわらのていか

ふじわら‐の‐ていか〔ふぢはら‐〕【藤原定家】

[1162~1241]鎌倉初期の歌人。名は「さだいえ」とも。俊成の子。父のあとを継いで有心(うしん)体の象徴的歌風を確立し、歌壇の指導者として活躍。「新古今和歌集」の撰者の一人。のち「新勅撰和歌集」を撰し、「源氏物語」などの古典の校訂・研究者としてもすぐれた業績を残した。家集「拾遺愚草」、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」、日記「明月記」など。

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百科事典マイペディアの解説

藤原定家【ふじわらのさだいえ】

鎌倉初期の歌人。〈ふじわらのていか〉とも。藤原俊成の子。民部卿,中納言にいたる。8番目の勅撰集《新古今和歌集》,《新勅撰集》の撰者,多くの歌合の判者となるなど,鎌倉初期の歌壇の中心であり,有心(うしん)体を提唱して,有心妖艷の秀作を残し,藤原家隆と並び称された。
→関連項目詠歌大概小倉百人一首仮名遣い金槐和歌集源氏物語源氏物語奥入私家集時雨亭文庫定家仮名遣い百人一首風雅和歌集藤原惺窩藤原隆信藤原為家藤原信実松浦宮物語源光行歴史的仮名遣い

藤原定家【ふじわらのていか】

藤原定家(さだいえ)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原定家 ふじわらの-ていか

ふじわらの-さだいえ

藤原定家 ふじわらの-さだいえ

1162-1241 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
応保2年生まれ。藤原俊成(としなり)の子。母は美福門院加賀。正二位,権(ごんの)中納言。京極中納言とよばれる。父の指導をうけ,後鳥羽(ごとば)院歌壇で活躍。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり,「小倉百人一首」も撰した。「源氏物語」などの古典の書写,校訂にも大きな功績をのこす。仁治(にんじ)2年8月20日死去。80歳。法名は明静。日記に「明月記」,家集に「拾遺愚草」,歌論書に「詠歌大概」など。
【格言など】来ぬ人をまつほの浦の夕凪(ゆふなぎ)に焼くや藻塩(もしほ)の身も焦がれつつ(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原定家

没年:仁治2.8.20(1241.9.26)
生年:応保2(1162)
鎌倉前期の歌人。歌人俊成 と若狭守藤原親忠の娘(美福門院加賀)の次男として生まれる。歌人として出発したのは治承2(1178)年のころと考えられ,その年の3月の賀茂別雷社の歌合に出詠しているが,同じ年に父が摂関家の九条兼実の歌の師範になったことから,父の歌の家への情熱を一身に受ける。翌年に内の昇殿が認められ,このころから日記『明月記』をつけ始めた。やがて治承・寿永の内乱の時代にあうが,定家は「紅旗・征戎,吾が事にあらず」と日記に記している。親しく仕えていた高倉天皇が養和1(1181)年1月にこの世を去り,深い悲しみに襲われたものの,父の配慮から九条家の保養を得,また母が仕えた八条院の庇護も得て,和歌に専念し始めた結果,『初学百首』を詠んでいる。 次いで寿永2(1183)年に父が後白河上皇の命によって『千載和歌集』の編纂を行うことになり,その手伝いをするなかで歌の家の継承を目指していった。源平の争乱も終わった文治1(1185)年には殿上において闘乱事件を起こし除籍される失敗もあったが,これも父のとりなしで事なきを得て,翌年に九条兼実が摂政になると,九条家に仕えるようになった。九条家では兼実の子の良経や兼実の弟慈円との交流があり,さらに殷富門院に仕える女房大輔や古くから父の関係していた徳大寺家に連なる人々,殊に歌人西行などとの交流から和歌の研鑽に励む。なかでも良経を中心にして俊成や慈円,寂蓮,藤原家隆などの集まった九条家の歌壇に属し新風を起こしていった。『源氏物語』や『白氏文集』などの古典に学び,本歌取りの技法を駆使した歌は「新儀非拠の達磨歌」との非難さえ浴びた。やがて後鳥羽上皇が和歌に執心し始め正治2(1200)年に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され,建仁1(1201)年7月27日に和歌所が置かれると,寄人に選ばれたばかりか,さらに『新古今和歌集』の編纂を藤原有家,源通具,藤原家隆・雅経,寂蓮らと共に命じられ,こうしてその和歌は大いに開花した。また鎌倉の源実朝からは和歌の指導を求められて『近代秀歌』を贈るなどして声望はあがった。ただ官位の昇進は遅く,建仁2年に中将となり,公卿になったのは建暦1(1211)年の50歳のときであった。承久の乱直前には後鳥羽上皇から勅勘を被る事件もあったが,それが幸いして乱にはくみすることなく,乱後に歌人の名声はいよいよ高まって『新勅撰和歌集』を編集するなど,中世最高の歌人と評されるところとなった。貞永1(1232)年に権中納言になって京極中納言と称され,その翌年病を得て出家,法名は明静。王朝和歌と文化の再興を目指していた定家は,歌学にも熱心で様々な和歌集や歌論書を作っている。『近代秀歌』では自分の歌を「余情妖艶の体」と,また『毎月抄』では「有心体」と称している。和歌の自選集に『拾遺愚草』がある。日記『明月記』は,官位へのこだわりが強く狷介で激しやすい歌人の素顔が窺え,また他人への悪口が満ちているなど極めて個性的な日記である。そこからは歌の家への強い執着心が読み取れ,公事に詳しく研究熱心な様も浮かんでくる。謡曲「定家」は式子内親王との恋を描いているが,事実は不明である。<参考文献>石田吉貞『藤原定家の研究』,五味文彦『藤原定家の時代』

(五味文彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのさだいえ【藤原定家】

1162‐1241(応保2‐仁治2)
中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのさだいえ【藤原定家】

ふじわらのていか【藤原定家】

〔名は「さだいえ」とも〕 (1162~1241) 平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。俊成の子。京極中納言と称さる。法号、明静みようじよう。「新古今和歌集」(共撰)、「新勅撰和歌集」を撰した。華麗妖艶な歌風で新古今調を代表し、一時代を画した。歌論書「近代秀歌」「毎月抄」、撰集「小倉百人一首」、日記「明月記」、家集「拾遺愚草」など。また、「顕註密勘」など古典の校勘にも功績を残し、「松浦宮物語」の作者ともいわれる。「千載和歌集」以下の勅撰集に四三九首入集。その書は「定家流」と呼ばれ、尊重された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原定家
ふじわらのさだいえ

[生]応保2(1162)
[没]仁治2(1241).8.20. 京都
鎌倉時代前期の公卿,歌人,古典学者。「ていか」とも読む。父は俊成。母は親忠の娘美福門院加賀。権中納言正二位。 72歳で出家。法名,明静 (みょうじょう) 。早くから歌才を発揮したが,青年期の作品は晦渋で,六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」と非難された。

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藤原定家
ふじわらのていか

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世界大百科事典内の藤原定家の言及

【有心】より

…栗本は狂歌これを無心と名づく〉(《井蛙抄》),〈有心無心の連歌〉(《吾妻問答》)など,優雅な和歌やそれに類した優美な連歌をさし,またこのような和歌・連歌の様式美をさす歌学用語ともなった。歌合判詞では,人や歌の心が深くこもることを賞して〈心あり〉とする用例が多いが,この伝統と藤原俊成の幽玄とが母胎となり,藤原定家の有心理念が形成される。とくに〈いづれの体にてもただ有心の体を存ずべきにて候〉(《毎月抄》)など,すべてにわたって基本とされるに及び,中世文学論の重要理念となった。…

【小倉色紙】より

…いわゆる小倉百人一首の歌をその撰者藤原定家がみずから書した色紙。京都嵯峨の小倉は風光優雅で古来多くの山荘がいとなまれた。…

【小倉百人一首】より

…鎌倉初期成立の歌集でもっとも親しまれてきた〈百人一首〉。藤原定家撰。1235年(嘉禎1)成立か。…

【仮名遣い】より

…江戸時代以後には漢字の字音をどんな仮名で表すかも問題とされるようになったが,それは字音仮名遣いという。最初に仮名遣いを意識的に取り上げた藤原定家の仮名遣いを〈定家仮名遣い〉という。それをうけて世に広めた〈行阿(ぎようあ)仮名遣い〉を批評して,上代の万葉仮名に根拠を求めた契沖の仮名遣いを〈古典仮名遣い〉〈復古仮名遣い〉または,〈歴史的仮名遣い〉とよぶ。…

【歌論】より

…その精神性は〈摩訶止観〉から学んだものであることは,俊成自身が言明しているところである。 俊成の子藤原定家は,《近代秀歌》《詠歌大概》《毎月抄》等の歌論を書いて,俊成の歌論を一歩推し進めた。〈詞(ことば)は古きを慕ひ,心は新しきを求め,及ばぬ高き姿をねがひて〉(《近代秀歌》),〈まづ心深く,長(たけ)高く,巧みに,詞の外まで余れるやうにて,姿気高く,詞なべて続け難きがしかもやすらかに聞ゆるやうにて,おもしろく,かすかなる景趣たち添ひて面影ただならず,けしきはさるから心もそぞろかぬ歌にて侍り〉(《毎月抄》)とあるように,高さや深さという内面性をいっそう重んじている点が注目されるのである。…

【近代秀歌】より

…歌論書。藤原定家が1209年(承元3)将軍源実朝の依頼で執筆。歌論部は《古今集》の序をふまえた和歌史批判と,その帰結としての作歌理念・表現方法論に分かれ,宇多朝(9世紀末)以前の古歌の尊重,余情・妖艶体の摂取,本歌取り技法による詩情の更新などの立場が提唱されている。…

【源氏物語】より

… 本文もまた当時は浮動性の多いものだったようで,陽明文庫本にその面影の一部を残している。こうした異本群の混乱を救い統一した形に整えようとしたのが鎌倉初期の藤原定家および,ともに河内守となった源光行(みつゆき)(1163‐1244)・源親行(ちかゆき)父子であった。定家は当時の善本とされた7本をもとに〈青表紙本〉を整定し,光行・親行らはさらに多くの本を参考にして〈河内(かわち)本〉を整定した。…

【顕註密勘】より

…別名《古今秘註抄》ほか。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存の顕昭《古今集註》とは別)に,1221年(承久3),藤原定家が自説を〈密勘(内密の考え)〉として書き加えたもの。定家は顕昭の注説におおむね肯定的だが,両者の学風が対照的に異なる例もみえる。…

【式子内親王】より

…家集に《式子内親王集》がある。謡曲《定家葛》などには,藤原定家との恋愛関係が説話化されているが,事実ではない。【上条 彰次】。…

【拾遺愚草】より

藤原定家の自撰家集で,伝本は定家自筆本(冷泉家蔵)ほか3系統。1216年(建保4)に上中下3巻を編み,のち33年(天福1)ころまで自身で増補。…

【新勅撰和歌集】より

…勅撰和歌集の第9番目。藤原定家撰。20巻。…

【寝殿造】より

…そして明障子(あかりしようじ)(現在の障子)が用いられ,部屋に畳が敷きつめられるようになると,次代の書院造の祖型が形成されることになる。なお下級貴族の住宅や,平安末期から鎌倉時代ごろの貴族の力が衰えてしまってからの住宅は,当然規模も小さく,例えば藤原定家の住宅は寝殿と中門廊,持仏堂,侍所,車宿などを持つのみで,対も南池もない(図3)。【清水 拡】。…

【短歌】より

…中世短歌の特質は,象徴性と哲学性とを基調としつつ内面化の方向を強めた点に認められるが,俊成の歌論の核心をなす幽玄,《山家集》に見られる西行の短歌作品は,はっきりとそうした特質を示しているからである。 《千載集》の次の勅撰集《新古今和歌集》(1205成立)は,上に記したような中世短歌の特質を典型的に体現したもので,選者の一人藤原定家の歌論の中心をなす有心(うしん)は,この方向の極北へ言及したものと見なしてよい。〈見わたせば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮〉(藤原定家)。…

【定家】より

…シテは式子(しきし)内親王の霊。旅の僧(ワキ)が都の千本(せんぼん)の辺で時雨にあい,雨宿りをしていると,そこへ若い女(前ジテ)が現れて,ここは藤原定家(ふじわらのさだいえ)が建てた時雨の亭(しぐれのちん)だと教え,昔を懐かしむかにみえる。女はさらに僧を式子内親王の墓に案内する。…

【定家流】より

藤原定家の書風をいう。定家の書は,父俊成のするどい書風とは異なり,巧妙とはいえない。…

【批評】より

…第1の時期には,親鸞や道元が仏教的立場から既存の宗派と既成道徳を徹底的に批評した(これは日本における一種の宗教改革であったということができる)。また藤原定家は最初の自覚的な歌論,すなわち文芸批評の原則を樹立した(これは貴族社会の内部から起こり,激しい社会的変動のなかで,文化的伝統を歴史的に自覚したという意味で,ヨーロッパの人文主義に通じている)。第2の時期には,本居宣長の儒教(およびある程度までは仏教)批評が,論戦の形をとってあらわれ,第3の時期,明治初年には,福沢諭吉らの啓蒙主義的な立場からの文明批評が活発になった。…

【本歌取り】より

…それまでは〈盗古歌〉と考えて,本歌取りを避ける主張もあった(藤原清輔《奥儀抄》)。《新古今集》巻一の藤原定家の歌〈梅の花匂ひをうつす袖の上に軒洩る月のかげぞあらそふ〉は《古今集》巻十五,在原業平の〈月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして〉を本歌とする。本歌取りのありようについて藤原定家は《毎月抄》に〈本歌とり侍るやうは,……花の歌をやがて花によみ,月の歌をやがて月にてよむ事は達者のわざなるべし。…

【毎月抄】より

藤原定家が1219年(承久1)に著した歌論。1巻。…

【松浦宮物語】より

…擬古物語。藤原定家作とする説が有力。鎌倉時代初期成立。…

【明月記】より

藤原定家の漢文日記。別名《照光記》。…

【藤原定家】より

…中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。…

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