日本歴史地名大系 「山窪村」の解説 山窪村やまくぼむら 埼玉県:浦和市山窪村[現在地名]浦和市山久保(やまくぼ)一―二丁目・山久保中島(なかじま)村の北に位置する。大宮台地与野支台の西縁に立地する。西は上峰(うえみね)村(現与野市)。田園簿では田九石余・畑一四石余で、旗本水野領。以後領主の変遷は西蓮寺(さいれんじ)村に同じと考えられる。元禄三年(一六九〇)の山久保村検地帳(榎本家文書)によると高二九石余、反別田九反余・畑四町二反余・屋敷一反余(屋敷数四)。当村は鹿手袋(しつてぶくろ)村・西蓮寺村など七ヵ村とともに平野原(ひらのはら)に入会っており、その当村分の草銭永一八七文を納めていた。 山窪村やまくぼむら 福井県:坂井郡丸岡町山窪村[現在地名]丸岡町山久保(やまくぼ)坂井平野の東部、加越山地の西麓にあって、北を竹田(たけだ)川が西流する。当地の受法(じゆほう)寺蔵の明応九年(一五〇〇)の方便法身像裏書に「長畝郷女谷窪」とあり、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも石高から考えて女形谷(おながたに)に含まれていたと思われる。正保郷帳によれば田方二二五石余・畠方八〇石余。江戸時代貞享三年(一六八六)一時福井藩領となったが、寛永元年(一六二四)以降、丸岡藩領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報