山川町(読み)やまかわちよう

日本歴史地名大系 「山川町」の解説

山川町
やまかわちよう

面積:四二・二七平方キロ

郡の北西部、吉野川中流域南岸に位置する。東は川島かわしま町と美郷みさと村、南も美郷村、西は美馬みま穴吹あなぶき町、北は吉野川を挟んで阿波郡阿波町と接している。町の南部は四国山地の麓と台地で、南西部に阿波富士と称される高越こうつ山がそびえている。中央部を川田かわた川が北流し、吉野川に注いでいる。北部は吉野川と川田川の沖積平野である。北部をほぼ並行してJR徳島線と国道一九二号が東西に走っており、町の中央部で一九二号から分岐する同一九三号が南へ延びている。南部の山腹や台地上に二〇を超える円墳が確認されている。律令制下では古代麻殖おえ郡四郷のうち、射立いたち(和名抄)瀬詰の湯立せづめのゆだてから川田・川田山かわたやま一帯に、忌部いんべ(同)山崎やまさきの忌部山一帯に比定されている。また麻植郡内の他の町村同様に古代における忌部氏の活動を伝える伝承も多く残されている。

町域所在の庄園としては高越寺こうつじ庄・河輪田かわわた庄・忌部庄があった。高越寺庄は成立当初は京都尊勝そんしよう寺を本家、前阿波守藤原説方の妻兼子を領家としていたが、建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家惣処分状(九条家文書)によると当時は九条家の「新御領」となっていた。その庄域は高越山とその山麓部を占めたと推定される。河輪田庄は現在の川田に庄名が継承された庄園であり、永久五年(一一一七)一〇月一三日の藤原宗通卿家政所下文案(朝野群載)に庄名がみえる。


山川町
やまかわまち

面積:二六・三八平方キロ

山門郡南東端に位置する。東は鷹取たかとり山から御牧おまき山の稜線を境として八女やめ立花たちばな町、南東・南も丘陵尾根線をもって熊本県玉名郡三加和みかわ町・南関なんかん町に、北は清水きよみず山から南東へ続く稜線を境に瀬高せたか町、西は飯江はえ川沿いに三池みいけ高田たかた町と接する。北部を飯江川支流大根だいこん川が西へ流れ、国道四四三号と九州縦貫自動車道が西部を南北に縦断している。町域の大部分は山地丘陵帯で、耕地平野はわずかに瀬高町と境を接する北西部のみにある。

律令制下では山門郡に属し、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる狩道かりじ駅を当町域に比定する説があり、同駅から肥後大水おおむつ(現南関町)に達する官道が縦断していた。


山川町
やまかわちよう

下京区花屋町西洞院西入

東西に通る旧花屋町きゆうはなやちよう通(旧左女牛さめうし小路)を挟む両側町。数軒の小町である。

平安京の条坊では、左京七条二坊四保一五町北側の地。平安時代中期、この付近、「左女牛西洞院」の地に、源頼義の邸宅があった(長命発心集)

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち西洞院組に所属。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には、当町の記載はなく、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「山川町」の名がみえる。


山川町
やまがわちよう

面積:三七・一八平方キロ

薩摩半島の南端、鹿児島湾口に位置し、揖宿郡の南端東部にあたる。西は開聞かいもん町、北は指宿いぶすき市に接し、東から南は鹿児島湾で、東シナ海に続く。町域内には成川なりかわ盆地や山川湾のマールをはじめ、うなぎ池や鷲尾わしお(四一一メートル)辻之つじの(二二七・六メートル)たけ(二〇二メートル)など多様な火山地形がみられる。山川港は噴火口の一部が沈んで外海と通じた天然の良港である。JR指宿枕崎線と国道二二六号が通り、市街地はJR山川駅の対岸、山川港の東に突き出した岬に形成されている。

山川マールと成川マールの周辺丘陵や台地上に遺跡が集中する。成川遺跡は縄文時代前期から後期にわたり、後期にピークを迎える。成川の内山うちやま遺跡や福元の山之上ふくもとのやまのうえ遺跡・福元洞穴遺跡などにも後期の生活跡がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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