南北朝時代の肥後(熊本県)の武将、菊池系図によると武時(たけとき)の十男、幼名を豊田(とよだ)十郎といい、もと八条院領肥後国益城(ましき)郡豊田荘(しょう)(熊本県熊本市南部から宇城(うき)市北部の一帯)を本拠としていたものらしい。阿蘇(あそ)氏庶家の恵良惟澄(えらこれずみ)の援助を得て、1343年(興国4・康永2)3月、合志幸隆(ごうしゆきたか)に占領されていた菊池氏の本拠深川城(菊池市深川)を回復し、菊池氏惣領(そうりょう)となり、肥後守(ひごのかみ)に補された。1348年(正平3・貞和4)正月、征西将軍懐良(かねよし)親王を隈部山城(くまべさんじょう)(菊池市隈府(わいふ))に迎え、以後九州宮方の主将として活躍。1353年(正平8・文和2)筑前針摺原(ちくぜんはりすりばら)(福岡県筑紫野(ちくしの)市)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)を、1359年(正平14・延文4)7月には少弐頼尚(しょうによりひさ)を筑後大保原(ちくごおおほばる)(久留米(くるめ)市)に破り(筑後川の戦い)大宰府(だざいふ)、博多(はかた)を制し、征西府の全盛時代を築いた。1371年(建徳2・応安4)新探題今川了俊(いまがわりょうしゅん)に大宰府を落とされ、筑後高良(こうら)山(久留米市)に退いたが、その後の消息は不明。所伝では文中(ぶんちゅう)2年(応安6)11月16日没。法名聖巌(せいがん)、墓所は武光開基の正観(しょうかん)寺(菊池市)にある。
[工藤敬一]
南北朝時代の武将。武時の子。童名乙阿伽丸,豊田十郎。肥後守。法名聖岩。号正観寺殿。生れは肥後国でも菊池ではなく,また元来は惣領でもなかったが,実力でしだいに一族を結集した。1348年(正平3・貞和4),積極的に征西将軍宮懐良親王の肥後入国を迎え,まもなく征西府を菊池に誘致し,軍事力を提供する。以後,九州南朝方勢力の中核として,各地に転戦。53年の筑前針摺原合戦で鎮西管領一色範氏を,59年の筑後大保原合戦で筑前守護少弐頼尚らを破り,ついに大宰府を占領,61年征西府をここに移す。この間,武光みずからは肥後,肥前,筑前など九州諸国の宮方守護を兼帯,征西府隆盛の支柱となる。しかし70年代に入り,幕府が九州探題今川貞世を派遣したことによって圧迫され,72年ついに大宰府を放棄し,肥後国に帰った。まもなく戦傷のため死去。
→筑後川の戦
執筆者:山口 隼正
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(阿蘇品保夫)
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?~1373.11.16?
南北朝期の肥後国の武将。父は武時。豊田十郎。肥後守。前当主武士(たけひと)が後継者として指名した乙阿迦丸(おとあかまる)と同一人物とする説もあるが,別人の可能性が強い。1345年(貞和元・興国6)合志幸隆に占拠された菊池氏本拠深川城の奪還に成功。実力を背景に一族から惣領の地位を承認される。48年(貞和4・正平3)征西将軍宮懐良(かねよし)親王を肥後に迎え,これに従う。九州探題一色範氏や畠山直顕・大友氏時・少弐頼尚をあいついで撃破し,大宰府を占領。ここに征西府を移し,九州の覇権と菊池氏全盛期を築く。しかし新探題今川了俊の下向後は劣勢となり,筑後国高良(こうら)山に退却。「菊池氏系図」では73年(応安6・文中2)11月16日没とあるが,確証はない。
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…肥後の豪族。中関白道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝えられてきたが,先年,刀伊入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官藤原政則(まさのり)(蔵則,蔵規とも書く)の子孫であると判明した。肥後北部菊池郡を本拠とし,やがて代々肥後守。鎌倉末,武時は,後醍醐天皇の命を受けて鎮西探題北条英時を攻めて討死。武時の子孫は,南北朝期,いずれも南朝方に立って征西将軍宮を奉じ,九州宮方勢力の中心となる。とくに,そのうち肥後国守・守護を兼帯した武光の軍事力は大きく,南北朝中期,九州宮方―征西府の隆盛を招いた。…
…南北朝期,京都・鎌倉の五山の制にならい肥後(熊本)菊池の豪族菊池武光により同地に定められた臨済宗寺院で,輪足山東福寺,無量山西福寺,手水山南福寺,袈裟尾山北福寺,九儀山大琳寺の5寺および〈五山の上〉熊耳山正観寺などがそれにあたる。正観寺は1344年(興国5∥康永3)ころ菊池15代武光が菩提所として建立し,大方元(たいほうげんかい)を開山とした。…
…熊本県菊池市にあり,1333年(元弘3)九州探題を攻めた菊池武時,その子で九州の南朝軍の中心として活動した武重,武光を主祭神とする神社。また武光の子武政以下26人を配祀する。1869年(明治2),菊池氏の勤王を顕彰するため,菊池の城址に創建,翌年鎮座祭,75年県社,78年別格官幣社に列せられた。菊池能運画像,木造僧形男神座像,菊池氏関係の古文書など多くの文化財を所蔵している。例祭は4月5日。【大隅 和雄】…
…その間,51年(正平6∥観応2),尊氏・直義の一時的和睦によって,直冬が正式に鎮西探題となる。しかし翌年の直冬,55年一色氏の,相つぐ九州退却により,以後60年代にかけて九州は征西府―菊池武光を中核とした宮方の隆盛期を迎える。60年代幕府側も斯波氏経,渋川義行を探題として一応任命したが宮方勢力の前に食い込むことができず,とくに渋川義行は任地九州に一歩も足を入れられなかった。…
…同年11月には直冬が詫磨(たくま)宗直を守護に補任した結果,幕府方の守護宇都宮冬綱とともに2人の守護が併立することになった。いっぽう宮方は53年(正平8∥文和2)菊池武光が一色氏討伐のため筑前に発向し,草野永幸,木屋行実らがこれに従った。55年宮方は筑前に攻め入り,一色氏は長門に逃れた。…
…51年(正平6∥観応2)ころ,少弐頼尚は守護職を室町幕府から解任され,かわって一色直氏が補任された。53年(正平8∥文和2)には宮方の菊池武光が一色直氏を針摺原に破り,宮方が優勢となった。55年11月一色範氏・直氏父子は宮方に追われて長門に逃れた。…
…菊池氏の活動は,豊後守護大友氏泰をして〈肥後のことは根本大綱に候〉といわせたように,内乱期における肥後国の政治的位置を特異なものとした。とりわけ菊池武光は,征西将軍宮懐良(かねよし)親王を迎え,阿蘇惟澄や八代荘の地頭職を得て入部した名和氏と協力して,探題一色氏や少弐氏,大友氏ら武家方を圧倒して大宰府に進出し,10余年にわたる征西府の黄金時代を築いた。1371年(建徳2∥応安4)今川了俊の下向により征西府は崩壊するが,菊池氏は南北朝合体後も肥後守護家の位置を維持した。…
※「菊池武光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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