日本歴史地名大系 「岡山城下」の解説
岡山城下
おかやまじようか
- 岡山県:岡山市
- 岡山城下
天正元年(一五七三)岡山城に入城した宇喜多直家と嗣子秀家居城時代(天正九年―慶長五年)に城郭と城下町の原形が形成され、小早川秀秋時代(慶長五―六年)を経て慶長八年(一六〇三)池田忠継が岡山藩二八万石に封ぜられてからは、池田氏によって領された岡山藩の城下町。同一八年には播磨国内三郡約一〇万石加増、元和元年(一六一五)以降備前と備中国内四郡で三一万五千石余となった。
〔創設〕
岡山城の地には、室町時代初め頃から中世的山城が築かれていて、大永年間(一五二一―二八)以降は金光氏が居城していた(備前軍記)。元亀元年(一五七〇)金光氏を謀殺した宇喜多直家は城地を拡大して、より大規模な城の造成を起こし、岡山城を築いて天正元年入城した。「和気絹」に当地について「岡山・石山・天神山三峰そばたち、南は海にのぞみ、東西は広野也、北にわづかの里民有て朝夕の煙たつばかり也、(中略)定まれる町数もなく、所々に五軒十軒の家並で日を極て市を立たり、西に市の町、下に二日市・七日市、上に四日市などいへり、大炊殿の市といふは今の川崎町の事也」とある。また「吉備温故秘録」に「当府古へは商家少なけれども、運漕よき土地なれば、海川の船日々に来り、毎日市をなして、当国并に備中・美作を初め、諸国の産物集り、交易ありしなり、其市場五箇所にて、月六度づゝにて都合三十日の市ありしよし、(中略)右市場より一宮へ運上出し来ると見へて、一宮宝蔵に、文明三年六月十三日の掟書あり」とみえ、岡山の地は広い平野に恵まれた水陸交通の要衝で、数ヵ所の市があるなど、近世の城郭と城下町を形成するにふさわしい土地であったことが、当地を選ばせた理由であったろう。直家は城の近隣に所在していた岡山明神・金光山岡山寺・
秀家はさらに城下の整備を推し進め、本丸を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報