安土(あづち)桃山時代の武将で岡山城主。直家(なおいえ)の嫡男で幼名は八郎、初め家氏と名のり、のちに豊臣(とよとみ)秀吉の一字を賜って秀家と改めた。父直家の没後は秀吉に養われ、1589年(天正17)秀吉の養女で前田利家(としいえ)の三女豪姫(ごうひめ)をめとる。82年備中(びっちゅう)(岡山県)高松城の攻略には、総勢2万余騎を出陣させて秀吉に加担して賞詞を受け、備中河辺(かわべ)川以東の9万石を授けられ、父の遺領の備前(びぜん)、美作(みまさか)両国(岡山県)をあわせて50余万石を領す。以後は秀吉の麾下(きか)として全国統一戦に従い、87年には参議、従三位(じゅさんみ)、94年(文禄3)には朝鮮出征の軍功で権中納言(ごんちゅうなごん)、97年(慶長2)の朝鮮再征には毛利秀元(もうりひでもと)とともに監軍として渡海し、翌年には五大老の一員に加わり、秀吉の没後、徳川家康らと政務の枢機にあずかった。この間、秀吉の指揮を仰いで岡山城を大改築し、城下町を整備して面目を一新し、94~95年には惣検地(そうけんち)を実施したといわれる。しかし一面、自らの驕慢(きょうまん)と領内検地の強行、日蓮(にちれん)宗弾圧などを契機として、重臣たちは日蓮宗徒=武将派と切支丹(キリシタン)徒=文吏派に対立して家中騒動が頻発し、武将派が離脱した。関ヶ原の戦いでは石田三成(みつなり)らに推されて西軍の将帥(しょうすい)となり、西軍の敗北で秀家は島津義弘(よしひろ)を頼って薩摩(さつま)に落ちたが、1606年(慶長11)八丈島へ遠流(おんる)された。秀家は剃髪(ていはつ)して休福と号し、同島へは嫡子孫九郎ら十数名が従ったという。島では悲惨な生活を送り、明暦(めいれき)元年11月20日病死したという。
[谷口澄夫]
(平野明夫)
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桃山時代の大名。直家の子。八郎,備前宰相,後に休復と号す。直家死後,1582年(天正10)に備前,美作を相続。豊臣秀吉麾下(きか)として,四国征伐,九州征伐,小田原征伐に従軍。秀吉の養女で前田利家の女豪姫と結婚した。92-98年(文禄1-慶長3)の朝鮮出兵に際しては2度にわたり渡海。備前,美作,備中半国,播磨3郡の57万石余を領し,城下町岡山の建設,児島湾の新田開発,太閤検地の実施など領国支配の進展につとめた。秀吉の死後,五大老の一人として重きをなしたが,有力家臣の内紛によって,宇喜多左京(後の坂崎出羽守),戸川,岡,花房など譜代家臣の主だったものを失った。1600年の関ヶ原の戦では,石田三成に擁立され西軍の中心となって大敗。薩摩の島津氏のもとにかくまわれ,03年島津氏の助命嘆願により死を免れ,06年伊豆八丈島へ流罪となる。在島50年にして没した。
執筆者:田中 倫子
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1572~1655.11.20
織豊期の武将。備前国岡山城主。直家の子。豊臣秀吉の五大老の一員。秀吉を事実上の後見人として1581年(天正9)家督となり,備前・美作・備中半国50万石余を領有。以後秀吉の四国・九州・関東出兵など全国統一事業に協力,朝鮮出兵にも主力として渡海。98年(慶長3)五大老の一員となり国政に参画。1600年関ケ原の戦では西軍に参加,敗北後は薩摩に落ち島津氏にかくまわれたが,のち八丈島に流された。近世岡山城と岡山城下町の原形を作り,また「宇喜多堤」を築いて児島湾の干拓に着手。
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…【由比浜 省吾】
[干拓の歴史]
中世末期から近世にかけて土砂堆積がすすみ,児島湾は遠浅となって大規模な干拓が続出した。早くは1580年代に岡山城主宇喜多秀家が備中の倉敷から早島にかけていわゆる〈宇喜多堤〉を築いて,児島湾干拓の口火を切った。岡山藩治下での干拓は,北岸から南下する形で初めは民営で行われ,土豪開発の米倉新田(30町)や町人請負の金岡新田(232町)が注目される。…
…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…
※「宇喜多秀家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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