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宇喜多秀家 うきたひでいえ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇喜多秀家
うきたひでいえ

[生]天正1(1573).備前浦上
[没]明暦1(1655).11.20. 八丈島
戦国時代後期の武将。直家の子で初め家氏。秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て,文禄・慶長の役には朝鮮で活躍した。秀吉五大老制の採用では,その1人にあげられ信任は厚かった (→五大老 ) 。しかし,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。島にあること約 50年,配所で没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宇喜多秀家 うきた-ひでいえ

1572-1655 織豊時代の武将。
元亀(げんき)3年生まれ。宇喜多直家の子。父の死後,備前・美作(みまさか)(岡山県)の相続をみとめられるなど羽柴秀吉に厚遇され,その重臣として活動。慶長3年五大老のひとりとなる。関ケ原の戦いで西軍につき,11年八丈島に流罪。明暦元年11月20日同地で没した。84歳。初名は家氏。通称は八郎。
【格言など】知行財宝の欲しきと言うも,人に人と言われてのことなり

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朝日日本歴史人物事典の解説

宇喜多秀家

没年:明暦1.11.20(1655.12.17)
生年:元亀3(1572)
安土桃山時代の大名。幼名は於福。通称は八郎。はじめ家氏,のち秀家。休復,久福と号す。宇喜多直家の長男。天正9(1581)年幼くして父と死別したが,羽柴(豊臣)秀吉の斡旋で織田信長から父の遺領相続を許された。翌年備中高松城攻めに出兵し,講和後秀吉から備前・美作・備中半国を安堵された。前田利家の娘豪姫を秀吉の養女として妻に迎えた。四国征討,九州征討,小田原の役に従軍した。この間,その戦功と秀吉の寵遇によって,天正13年従五位下侍従兼河内守,同14年従四位下少将,同15年従三位中将・参議と累進し,文禄3(1594)年権中納言に任ぜられた。天正18年秀吉の命により岡山城の大改築に着手し,慶長2(1597)年完成した。文禄の役には元帥として,慶長の役には毛利秀元と共に監軍となり,朝鮮に渡った。慶長3年秀吉から,いわゆる「五大老」に列せられ,秀吉死後の中央政務に参画した。同5年関ケ原の戦が起こると,西軍の総帥に擁されたが,敗れて島津義弘を頼り薩摩に逃れた。同8年島津・前田両家の嘆願によって死罪を免れ,駿河久能山(静岡市)に幽閉された。同11年八丈島に配流となり,同地で没す。没年は一説に寛永2(1625)年とされる。<参考文献>『岡山市史2』,立石定夫『戦国宇喜多一族』

(平野明夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

うきたひでいえ【宇喜多秀家】

1572‐1655(元亀3‐明暦1)
桃山時代の大名。直家の子。八郎,備前宰相,後に休復と号す。直家死後,1582年(天正10)に備前,美作を相続。豊臣秀吉麾下(きか)として,四国征伐,九州征伐,小田原征伐に従軍。秀吉の養女で前田利家の女豪姫と結婚した。92‐98年(文禄1‐慶長3)の朝鮮出兵に際しては2度にわたり渡海。備前,美作,備中半国,播磨3郡の57万石余を領し,城下町岡山の建設,児島湾の新田開発,太閤検地の実施など領国支配の進展につとめた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇喜多秀家
うきたひでいえ
(1573―1655)

安土(あづち)桃山時代の武将で岡山城主。直家(なおいえ)の嫡男で幼名は八郎、初め家氏と名のり、のちに豊臣(とよとみ)秀吉の一字を賜って秀家と改めた。父直家の没後は秀吉に養われ、1589年(天正17)秀吉の養女で前田利家(としいえ)の三女豪姫(ごうひめ)をめとる。82年備中(びっちゅう)(岡山県)高松城の攻略には、総勢2万余騎を出陣させて秀吉に加担して賞詞を受け、備中河辺(かわべ)川以東の9万石を授けられ、父の遺領の備前(びぜん)、美作(みまさか)両国(岡山県)をあわせて50余万石を領す。以後は秀吉の麾下(きか)として全国統一戦に従い、87年には参議、従三位(じゅさんみ)、94年(文禄3)には朝鮮出征の軍功で権中納言(ごんちゅうなごん)、97年(慶長2)の朝鮮再征には毛利秀元(もうりひでもと)とともに監軍として渡海し、翌年には五大老の一員に加わり、秀吉の没後、徳川家康らと政務の枢機にあずかった。この間、秀吉の指揮を仰いで岡山城を大改築し、城下町を整備して面目を一新し、94~95年には惣検地(そうけんち)を実施したといわれる。しかし一面、自らの驕慢(きょうまん)と領内検地の強行、日蓮(にちれん)宗弾圧などを契機として、重臣たちは日蓮宗徒=武将派と切支丹(キリシタン)徒=文吏派に対立して家中騒動が頻発し、武将派が離脱した。関ヶ原の戦いでは石田三成(みつなり)らに推されて西軍の将帥(しょうすい)となり、西軍の敗北で秀家は島津義弘(よしひろ)を頼って薩摩(さつま)に落ちたが、1606年(慶長11)八丈島へ遠流(おんる)された。秀家は剃髪(ていはつ)して休福と号し、同島へは嫡子孫九郎ら十数名が従ったという。島では悲惨な生活を送り、明暦(めいれき)元年11月20日病死したという。[谷口澄夫]

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世界大百科事典内の宇喜多秀家の言及

【児島湾】より

…【由比浜 省吾】
[干拓の歴史]
 中世末期から近世にかけて土砂堆積がすすみ,児島湾は遠浅となって大規模な干拓が続出した。早くは1580年代に岡山城主宇喜多秀家が備中の倉敷から早島にかけていわゆる〈宇喜多堤〉を築いて,児島湾干拓の口火を切った。岡山藩治下での干拓は,北岸から南下する形で初めは民営で行われ,土豪開発の米倉新田(30町)や町人請負の金岡新田(232町)が注目される。…

【五大老】より

…豊臣秀吉の遺言状案では〈おとな五人〉といわれ,1598年(慶長3)9月の起請文写しでは五奉行と合わせて十人の衆と呼ばれている。豊臣政権最高の施政機関で,構成は徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝からなり,家康と利家とが上首であった。1595年(文禄4)の起請文前書によれば,家康は坂東の法度置目公事篇の儀を,輝元と小早川隆景とは坂西のそれを委任されているし,秀吉の遺言状によれば利家は秀吉の盟友であって豊臣秀頼の傅(ふ),宇喜多秀家は豊臣氏と一体であった。…

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