日本歴史地名大系 「中之町」の解説
中之町
なかのちよう
中之町
なかのちよう
中之町
なかのちよう
中之町
なかのちよう
南北に通る寺町通(旧東京極大路)を挟む両側町。
平安京の条坊では町の西側は左京五条四坊四保一五町東側、東側は条坊外。
祇園社の「社家記録」観応元年(一三五〇)七月条には、
とあり、祇園社の注文などを受けていた銅細工がいたことを物語る。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「寺町中ノ町」とあるのを町名の初見とし、以後変更はない。町名はもと「冠者殿三町組中之町」と称したのが略称されたという(坊目誌)。貞享二年(一六八五)刊「京羽二重」によれば、当町には裏辻筑後という著名な筆師が居住。
明治維新以前は下古京巽組の新シ町で構成する塩竈組に所属し、二三軒役を負担。祇園祭には孟宗山の寄町。
町内中央にある浄土宗
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東西に通る
平安京の条坊では、町の北側は左京三条四坊二保一二町の南側、及び同南側は左京四条四坊四保九町北側の地。平安中期以降は、三条万里小路の東にあたる。
「中右記」康和五年(一一〇三)一二月一七日条には、「亥時許当北方有焼亡、是前右衛門佐基信三条万利小路宅云々」とある。安嘉門院御領目録にある貞応二年(一二二三)五月三日付の後高倉院庁下文案(東寺百合文書)に、「京御領」のうちに「三条北万里小路東一戸主」とあり、後高倉院の遺領の一部がこの町の域内に所在したことが知られる。
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なかのまち
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報