中之町(読み)なかのちよう

日本歴史地名大系 「中之町」の解説

中之町
なかのちよう

[現在地名]堺市中之なかのひがし一丁・中之なかの西にし一丁

宿院しゆくいん町の南に続く大道を挟む両側町。北組の北中之きたなかの町に対して南中之町ともいう。天文四年(一五三五)四月二八日念仏寺築地修理料差文(開口神社文書)に「中町」とあり、「まんさきや」「こめや」「はちや」「つしかはな」「きぬや」「うをや」「かこや」「佐藤」「野島」「のとや」「伊勢や」「石はし」などの屋号をもつ町人一六人の名がみえる。このうち「弥次郎殿うをや」は奈良春日大社御間おあい道脇にある天文七年七月吉日銘の石灯籠を寄進した「堺魚屋弥次郎」と同一人物と思われる。なお南中之町てら町の宝光ほうこう寺蔵親鸞絵像裏書に「天文十興正寺門徒和泉国大鳥 堺南庄中小路宝光寺」(堺市史)とあった。


中之町
なかのちよう

東山区三条通白川橋東入四丁目

町内で三条通が広道ひろみちと交差する。この四辻を古く十禅師じゆうぜんじつじといった。広道は北へ進んで鳥居小路とりいこうじ車大路くるまおおじとよばれ、もとは青蓮しようれん院の管理する道であった。南へ下ると良恩寺りようおんじ辻子ずしとなる。また町内西を三条通より南下する道は、粟田神社参道(天王辻子)となる。

承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「中ノ丁」とみえ、開町は江戸時代初期のはずであるが、文献では延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に「中町」と出る。


中之町
なかのちよう

東山区四条通大和大路西入

四条通を南北に挟む両側町。東は廿一軒にじゆういつけん町及び祇園町南側ぎおんまちみなみがわ、南は大和やまと町、西は川端かわばた町、北は常ときわ町。

もと祇園社(現八坂神社)二の鳥居の立っていたところで、中世以来、洛中よりの祇園参詣路として、相応の賑いを呈していたと思われる。寛正四年(一四六三)正月、祇園西大門門前の大火で火が四条橋の橋詰に及んだが(百錬抄)、既に当時、人家が密集していたのであろう。なお二の鳥居は「一遍聖絵」に、四条橋東詰を描いて木造朱塗の鳥居を配し、下っては「野史」応永一二年(一四〇五)六月九日条に「洪水、祇園社鳥居倒。


中之町
なかのちよう

下京区寺町通綾小路下ル

南北に通る寺町通(旧東京極大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では町の西側は左京五条四坊四保一五町東側、東側は条坊外。

祇園社の「社家記録」観応元年(一三五〇)七月条には、

<資料は省略されています>

とあり、祇園社の注文などを受けていた銅細工がいたことを物語る。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「寺町中ノ町」とあるのを町名の初見とし、以後変更はない。町名はもと「冠者殿三町組中之町」と称したのが略称されたという(坊目誌)。貞享二年(一六八五)刊「京羽二重」によれば、当町には裏辻筑後という著名な筆師が居住。

明治維新以前は下古京巽組の新シ町で構成する塩竈組に所属し、二三軒役を負担。祇園祭には孟宗山の寄町。

町内中央にある浄土宗聖光しようこう寺は、寺伝によれば建久八年(一一九七)に当地に浄土宗二世聖光上人が開創。


中之町
なかのちよう

[現在地名]貝塚市なかきた

貝塚寺内の町区画の一。紀州街道の東にあり、町の南端を水間みずま方面への往還が通る。当町には寺内の中心である願泉がんせん寺があり、また寺内鎮守感田かんだ神社が鎮座。嘉永三年(一八五〇)の人数五六九人で、同年貝塚御坊の施粥を申出た家二一軒・人数七二人(同年「御執次方日録」卜半家文書)、明治二年(一八六九)の戸口は一二五軒・五一一人(「明治二年日記」同文書)


中之町
なかのちよう

中京区新町通押小路下ル

南北に通る新町しんまち(旧町尻小路)を挟む両側町。南側を現御池おいけ通が通る。

平安京の条坊では、町の西側が左京三条三坊一保二町東、東側が同七町西。平安中期以降は押小路町尻小路の南にあたる。平安時代、町の東側は鴨院、西側は東三条殿の一部にあたる(拾芥抄)

応仁の乱以前の「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)に、「一、たいしほく 押小路と三条坊門間」とあり、竪の通名が記されていないが、「押小路(町尻)」の書違いならば、応仁乱以前には当町付近を中心にして、祇園会に「たいしほく(鉾)」が出されていたと思われる。


中之町
なかのちよう

[現在地名]中区にしき一丁目・さかえ一丁目

碁盤割の南西に位置し、東西約四五九間。宝永六年(一七〇九)頃の尾府名古屋図(蓬左文庫蔵)によれば、くら筋の東、御園みその町の西に並行する長い町。北限は本重もとしげ町筋で、当時は現在のようにさくら通まで延長されていなかった。南限は天王崎てんのうざき(現若宮大通)。両側には武家屋敷が並び、その数四四軒。


中之町
なかのちよう

[現在地名]津山市中之町

出雲往来の両側に東西に連なる町。西は勝間田かつまだ町、東は西新にししん町、南は吉井川、北は上之うえの町。俗に東鉄砲ひがしてつぽう町と称された(津山誌)。正保城絵図には町屋はなく足軽町と記す。林田小性町(「林田十九軒屋敷文書」弓斎収集史料)や「武家聞伝記」寛永一九年(一六四二)五月条に、蛍取が殺されたとある「林田足軽町」などが中之町の旧町名か。同書正保二年(一六四五)条によれば、この年町屋がつくられた。元禄町絵図では出雲往来の両側に町屋が記され、南の堤沿いに扶持人屋敷がある。享保町絵図ではすべて町屋となっている。


中之町
なかのちよう

中京区新京極四条上ル

新京極しんきようごく通を挟み、北を錦小路にしきこうじ(旧錦小路)、南は四条しじよう通、東を裏寺町うらてらまち通、西を寺町てらまち通が通る。大部分が京域外であるが、町の西は条坊の錦東京極大路と四条東京極大路間の東京極大路上にあたる。

室町時代には、佐々木京極氏の京邸があった。

「坊目誌」に「元、金蓮寺及び歓喜光寺の境内也。


中之町
なかのちよう

[現在地名]岡山市表町おもてちよう一丁目

内堀と中堀に囲まれた郭内商業地域の町。南北に延びる山陽道に沿う両側町で、北は上之町、南は下之町。寛永城下絵図に町名がみえ、南北七五間。宇喜多氏時代に成立した町と考えられる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によると町域は一町余で、徳米二八石余・口米五斗余。近世初期の区分では内町(市政提要)、中期以降は上組の中町(岡山市史)

町の西側、上之町との境をなす横町北側は上之町分であるが、中之町横町といい、これから西方東中山下ひがしなかさんげへ渡る橋を中ノ橋とよぶ。東側、上之町との境の横町は中之町分。


中之町
なかのちよう

中京区三条通柳馬場東入

東西に通る三条さんじよう(旧三条大路)を挟む両側町。町の西側は柳馬場やなぎのばんば(旧万里小路)、町の中央部東寄りの所を南北に富小路とみのこうじ通が通る。

平安京の条坊では、町の北側は左京三条四坊二保一二町の南側、及び同南側は左京四条四坊四保九町北側の地。平安中期以降は、三条万里小路の東にあたる。

「中右記」康和五年(一一〇三)一二月一七日条には、「亥時許当北方有焼亡、是前右衛門佐基信三条万利小路宅云々」とある。安嘉門院御領目録にある貞応二年(一二二三)五月三日付の後高倉院庁下文案(東寺百合文書)に、「京御領」のうちに「三条北万里小路東一戸主」とあり、後高倉院の遺領の一部がこの町の域内に所在したことが知られる。


中之町
なかんちよう

[現在地名]池田市綾羽あやは一―二丁目

米屋こめや町の北にあり、中之町筋(能勢街道)に沿う。文禄初年に北の小坂前おさかまえ町から分離して成立した(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)に問屋一八・酒屋二・米屋五・茶屋一・豆腐屋一・油屋一・紙屋一・古金屋一・干鰯屋一・鍛冶屋一・紺屋一・日用四・庄屋一・職業無記載二の四〇軒が記され、うち家持三三・借屋七。また米屋町にかけて問屋が軒を並べていたことが知られる。この問屋は「中之町米屋町ハ家並軒続ニテ、往古よりかう類升物諸売買之市場ニテ、則御料私領代々不相替問屋廿四軒ニて古来より月ニ十弐才之市立来候」(安永三年「口上書」稲束家文書)という市立て・問屋の場所に指定されていた。


中之町
なかのちよう

上京区猪熊通丸太町下ル東側

町の西は猪熊いのくま(旧猪隈小路)、北は丸太町まるたまち(旧春日小路)、南は二条城(現中京区)。平安京の条坊では左京二条二坊一保七町の地で、官衙町の一つ「神祇町」の跡地(拾芥抄)。平安中期以降は春日小路猪隈小路南の地。正慶二年(一三三三)五月七日、足利尊氏が千種忠顕赤松則村とともに六波羅ろくはら(現東山区)を攻めたとき(増鏡)、しばらく当地に軍を駐屯させたという(坊目誌)


中之町
なかのまち

[現在地名]西条市本町ほんまち

寛永開町当時から続いた町。西条陣屋町の大年寄広島屋多右衛門の先祖平右衛門が大町おおまち村から移って開いた。陣屋町の北西部にあり、東に明屋敷あきやしき分飛地の字北町きたまち、西は明屋敷分に接し、南はほん町、北は魚屋うおや町に続く中間の町であり、町名はここに由来するか。


中之町
なかのまち

[現在地名]下関市中之町なかのちよう

関門かんもん海峡に面し、外浜とばま町の北西に位置する。亀山かめやま八幡宮の境内の北側に広がる。安徳天皇縁起絵図(赤間神宮所蔵)によれば、亀山八幡宮が描かれている地は離れ島となっており、当地にあたるところから橋が架かっている。寛保二年(一七四二)に描かれた「御国廻御行程記に」の絵図「中ノ丁」とみえ、この頃は亀山八幡宮の鎮座する島は陸続きとなっている。


中之町
なかのちよう

[現在地名]水口町本町ほんまち二丁目

塗師屋ぬしや町の東、北裏通を挟んだ両側町。西端を大辻が南北に通る。東端は同じく南北に伊賀街道が通り、南に折れると魚屋うおや町。南はひら町の一部とばん町に接する。延宝七年地子赦免帳では居屋敷一七・番屋敷一・寺(日蓮宗本正寺)一、屋敷地の間口は最大一二間二尺余・最小四間四尺余。


中之町
なかのちよう

中京区小川通丸太町下ル

南北に通る小川おがわ通を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京二条二坊四保一五町の中央部の地。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「突抜中町」とあり、筆描図系では、元禄末期洛中絵図に「中之町」とあるが、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図は「小川通中之丁」と記す。木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図に「まるお丁」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図は「丸や丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「中之町 北組南組」と二町に分れ、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成に「中之町」と記す。


中之町
なかのまち

[現在地名]伊丹市伊丹二丁目・中央ちゆうおう三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。魚屋うおや町の南側に位置し、ほん町筋を挟んだ両側町。文禄伊丹之図に町名がみえ、会所入用割の間数は一四九間(「正心調法記」武田家文書)。本町筋の魚屋町との境界に札場があり、本町筋と交差する東西筋を札場之辻とよんだ(寛文九年伊丹郷町絵図)


中之町
なかのちよう

上京区東三本木通丸太町上ル二丁目

かも川の西側に位置。町の西を南北に東三本木ひがしさんぼんぎ通が通る。

元禄四年(一六九一)京大絵図は「あきやしき」「三人衆」と記すだけで町名はない。宝永五年(一七〇八)の大火後、京都御所拡張の時、三本木町一丁目から三丁目まで(現京都御苑内)の人家を移し開町(町の様子は→三本木


中之町
なかのちよう

東山区新門前通大和大路東入二丁目

新門前通のしら川以東。新門前通開通以来の町名で、延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)に町名をみ、正徳四年(一七一四)の洛外町続町数小名家数改帳(同文書)に一九軒の家数が示される。

鍋屋なべや橋は中之町・梅本町の境界を北へ白川を越える橋で、この道路を鍋屋橋筋という。


中之町
なかのちよう

[現在地名]水戸市城東じようとう三丁目

とおり八―九町目の間から北に向かい、浮草うきくさ町に通ずる町。西は赤沼あかぬま町。「水府地名考」に「赤沼町と蓮池町の間に在る故中の町の名ありと見へたり」とある。


中之町
なかのちよう

[現在地名]西宮市本町ほんまち

釘貫くぎぬき町の東に続く山陽道沿いの町。西宮町の町方一五町の一(天保九年「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)。寛文元年(一六六一)の西宮町検地帳写(西宮市役所蔵)に町名がみえ、住民二一人を記す。


中之町
なかのちよう

[現在地名]松本市あさひ二丁目

天白てんぱく町と東之ひがしの町の間にある南北に長い町。「信府統記」には「中ノ町 南北百六拾六間余、家数西ケ輪二拾軒、東ケ輪三拾一軒、此町東西小路二ケ所アリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中之町の言及

【祇園】より

…すなわち,1670年(寛文10)ごろには大和大路沿いに三条方面から町並が南下,四条通南の団栗(どんぐり)の辻子(ずし)までの間に〈祇園外六町(そとろくちよう)〉が形成され,1713年(正徳3)には白川沿いに町地が造成されて〈祇園内六町〉が出現した。四条河原にあった芝居小屋もすべて外六町のうちの〈中之町(なかのちよう)〉に移り,元禄期には四条通をはさんで5棟の芝居小屋が立ち並んだ。こうして茶屋,水茶屋,旅籠屋などに芝居町を合わせて,一大遊興地帯となった祇園の繁盛は,公許の島原遊廓をしのぐほどになった。…

※「中之町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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