朝日日本歴史人物事典 「岡部長常」の解説
岡部長常
生年:文政8(1825)
幕末の幕臣。太田運八郎の子,岡部氏の養嗣。将軍徳川家慶・家定の小姓を務め,嘉永6(1813)年使番。安政1(1854)年西丸目付となり,翌年目付に就く。安政大地震のとき,江戸城内を冷静に指揮し混乱を最小限に抑えたという。同3年海防掛として長崎に赴任。赴任に際し,はじめて妻子随伴が認められる。帰府後長崎奉行に累進。5年,日蘭通商条約交渉のほか,飽之浦製鉄所建設,英語伝習所設立などに努力。またオランダ人医師ポンペと松本良順の意見を容れ,長崎養生所開設,死体解剖,コレラ防疫など医学の普及に深い理解を示す。文久1(1861)年外国奉行,同2年大目付,道中奉行,翌3年幕政の改革気運のなかで将軍徳川家茂上洛御用を務めて供奉,のち作事奉行。元治1(1864)年神奈川奉行,次いで鎗奉行,さらに慶応1(1865)年軍艦奉行となる。ポンペは長常を「日本人の中における文明人」と評した。<参考文献>「幕府名士小伝」(『旧幕府』1巻2号),『長崎県人物史』
(岩壁義光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報