国内において外国人が自由に住むことを条約によって認めた土地。日本の外国人居留地は,1858年(安政5)幕府が米,蘭,露,英,仏の5ヵ国と結んだ修好通商条約(安政五ヵ国条約)の中で,それを設けることを定めたのが最初である。条約の個条に記された主な内容は,(1)開港・開市を認めた場所には,外国人の居留を許す。(2)居留民には,借地,建物の購入,倉庫の建設を認める。(3)借地の場所および各港の規則は,各港の奉行と領事とが相談して決める。それで決められない場合は,日本の政府と公使とで決定する。(4)居留地の周囲は垣を設けず,出入り自由とする,の4点であった。外国に約束した開港・開市の日限にしたがって,59年7月(安政6年6月)から横浜,長崎,箱館,68年1月(慶応3年12月)から大坂,神戸,69年1月(明治1年11月)から東京,新潟に居留地が置かれたが,箱館と新潟は外国人の来住者が少数であったため,居留地の形成をみなかった。これらの居留地は,99年,改正条約が発効するまで存続した。次に,横浜居留地を例にとって,その運営の実態をみておこう。居留地ができて間もない1860年8月,米,英,蘭の3ヵ国の領事は,日本側の承認を得ないままに,神奈川地所規則を勝手に制定し,居留民に守らせた。これは,54年に制定された中国の上海租界の土地章程を模範として作成されたといわれ,居留民総会が強力な自治権をもつことを,その眼目としている。条約で領事裁判権を外国に付与している状況の下で,居留地での自治行政を居留民が握ったため,居留地は事実上,日本の主権から独立した存在となった。しかも63年7月(文久3年5月),攘夷派の居留地襲撃のうわさが流れる中で,幕府は英・仏両国の軍隊が居留地に駐屯することを認めた。このため両国軍隊は75年まで横浜に常駐し,この間,居留地には兵営をはじめ,火薬庫,射撃場などもつくられた。64年12月19日(元治1年11月21日)には,米,英,仏,蘭の4ヵ国の公使と幕府との間で〈横浜居留地覚書〉が取り交わされた。これは4ヵ国の軍事的圧力の下で締結に至ったもので,各国の軍事訓練場の設置,居留地の大幅な拡大,外国が日本に支払うべき地代の2割を差し引き,これを居留地の自治機関の運営資金にすることなどが定められている。こうして横浜居留地は,日本の中の外国領土のような様相を呈することになった。70年代以降,居留地の廃止は,条約改正とともに,日本国民の強い要求となった。
→居留地貿易 →内地雑居
執筆者:小野 正雄
朝鮮では,日朝修好条規にもとづき翌1877年釜山にはじめて日本専管居留地が設置された。江戸時代の日朝貿易は,釜山草梁の倭館における対馬藩の制限貿易として行われ,明治政府はこれを継承しながら同条規で一方的に有利で自由,無制限の貿易権を得た。日本,中国における欧米諸国の居留地,租界に範を求められた釜山居留地では,日本が領事裁判権のみならず行政権も掌握した。日本は釜山のほかに順次元山,仁川,馬山に,また清国は84年より仁川,さらに釜山,元山にそれぞれ一国単独の専管居留地を設けていったが,欧米諸国は仁川をはじめとして共同の各国居留地(雑居居留地)で満足した。以後の開港場では,日本を含め各国居留地が通例となった。居留地は,日韓併合をへて1913年に撤廃された。
→租界
執筆者:村上 勝彦
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外国人の内地雑居を認めない国家が、条約で外国人の営業と居住を認めた地域。中国語の「租界」の公定訳で、居住外国人は永代借地権を得、また警察権を含む自治行政権をもつ場合が多く、領事裁判制度とともに国家主権を侵害した。日本では安政五か国条約締結の際、アメリカ全権は、長崎出島(でじま)の慣習を基準とされることを恐れて雑居を求めたが、幕府は相互の紛争発生を懸念し外国人隔離の目的で居留地設定を希望した。1859年(安政6)長崎、箱館(はこだて)、神奈川(横浜)に居留地を開設、上海(シャンハイ)租界第2回土地章程とほぼ等しい規則で、自治行政権を認めた。1868年(慶応4)1月兵庫、大坂に、ついで翌1869年(明治2)1月江戸、新潟に開かれた。自治行政権は、箱館、江戸では実施されなかったが、横浜では1867年名目的に返還しながら、実質的には1877年まで行政権を外国人が握り、神戸、大阪でも1899年の改正条約実施で居留地が消滅するまで、外国人による自治が行われ、主権を侵害していた。他方、日本は1876年最初の専管居留地を朝鮮の釜山(ふざん)に設定した。
[藤村道生]
『大山梓著『旧条約下に於ける開市開港の研究』(1967・鳳書房)』
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1858年(安政5)の安政五カ国条約によって,借地,家屋などの建設,居住,営業が条約国の国民に許された開港場内の一定地域。居留は,一時的滞在としての逗留や,日本人との雑居に対比される語。五つの開港場のうち横浜・神戸・長崎に設けられ,箱館・新潟には雑居地しか設けられなかった。一方,開市場である大坂・江戸(東京)では逗留しか認められないはずだったが,開港場に変更された大坂とともに,東京にも設けられた。土地は日本の主権のもとにあるが,居留民の人身は領事裁判制度により条約国領事の保護下におかれた。実際の運営は日本の地方官憲(各港奉行,のちに府県)と各国領事の協議によったが,居留民の代表に一定の権限が与えられることもあった。99年(明治32)改正条約発効により廃止。
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…また神奈川(横浜),長崎,箱館,ついで新潟,兵庫(神戸)を開港場とし,江戸と大坂を開市場として官吏の干渉なき自由貿易を行うことも認めた。各開港場には居留地を設定してそこに外国人が居留すること,開市場に逗留することにも同意した。そのうえ,締結各国に領事裁判権を与え,輸出入の関税率の決定は彼我双方の協定によることとされ,各国に対して片務的に最恵国待遇を与えることが規定された。…
…荷預所に対しては政府からの資金援助があり,地方生糸商や生産者も積極的に支援するなど,国民的規模の運動に発展したが,外商側の強硬姿勢の前についに敗れ,荷預所は解散を余儀なくされた。だが,この事件を通じて売込問屋はますます荷主に対する地位を高め,外商の活動を居留地内に封じ込めることにも成功した。【石井 寛治】。…
…本来は,居留地の人々を対象として居留地外国人の発行した新聞を意味するが,そのほか,居留地外国人が治外法権を利用して発行した日本人対象の日本語新聞も,居留地新聞と呼ばれる。居留地新聞としては,1861年(文久1)6月長崎で創刊された英字紙《ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザーThe Nagasaki Shipping List and Advertiser》が最も早く,週2回刊で同年10月までに28号を発行した。…
…1868年(明治1)から99年外人の内地雑居許可までの期間,東京築地明石町にあった外国人居留地。居留地は,そこだけ外国人の居住・営業を許し,治外法権を認めた特別地域で東京の中の外国であった。…
…外国人の居住,旅行,遊歩を特別に定められた開市場や開港場の居留地のみに制限しないで,日本の内地で自由に旅行したり居住し,あるいは商工業営業や不動産所有を認めること。安政五ヵ国条約締結の際,アメリカは鎖国時代の長崎出島の慣習が基準とされることをおそれ内地雑居を要求したが,幕府は相互の紛争を懸念し,外国人隔離の方針で居留地を設定した。…
※「居留地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
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