1867年(慶応3)10月14日,江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が朝廷(天皇)へ政権返上を申し出,翌15日,朝廷が許可した幕末期の政治事件。〈大政〉とは天下の政治の意。慶応期(1865-68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。それは政治の実権を幕府から朝廷に奉還し,朝廷(天皇)のもとに諸侯会議および新たに登用された人材(議員)によって構成された上下議政局をおいて万機を公議に決し,開国和親・法律制定・軍事力(御親兵)設置・貨幣統一などによって国家の体制を整えようとしたものであった。これはヨーロッパの議会制度の知識を借りた具体的な政権構想で,それだけに幕藩体制との妥協的な側面をもっていた。こうした公議政体論は,肥後藩士横井小楠,薩摩藩士五代友厚や幕臣大久保忠寛(一翁)らにもみられ,坂本竜馬はこの大久保の影響をうけたといわれている。
1867年6月22日,後藤は,薩摩藩に働きかけて薩土盟約を結んだ。これは後藤のほかに,土佐藩の寺村左膳,福岡孝弟,真辺栄三郎,中岡慎太郎らが加わり,薩摩藩の小松帯刀(たてわき),西郷隆盛,大久保利通らとの協議によって成ったもので,公議政体路線と討幕派路線とが微妙にからみ合っていた。だから,この薩土盟約は薩摩藩の村田新八をとおしてただちに討幕派の拠点長州藩に報じられたが,長州藩ではこの盟約は最終的には武力討幕を否定してはいないとみていた。討幕派は政権構想では公議政体論によりかからざるをえない弱点をもっていたのである。後藤はこの討幕派の弱点を巧みに利用しつつ,薩摩藩を公議政体路線にひきつけて幕府との武力決戦を回避しようと企図していた。土佐の藩論を大政奉還に決定させた後藤らは,芸州藩とも交渉をもった。この後藤らの工策の裏をかくように,9月20日には,薩長芸3藩の挙兵協定も成立していたのである。
こうして,公議政体路線と討幕派路線とが競合・交錯するなかで,後藤らは山内容堂の名で大政奉還をすすめる建白書を老中板倉勝静(かつきよ)をとおして将軍に提出した。その別紙には寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛(郡廉)が連署し,内外庶政の急務,更始一新の要諦を列挙していた。これはさきの〈船中八策〉に基づいたものであった。これをうけた徳川慶喜は,板倉勝静・永井尚志(若年寄格)をはじめ,松平定敬(老中上座,所司代)・松平容保(京都守護職)らとはかって大政奉還を決意し,さらに松平慶永・徳川慶勝(前尾張藩主)・徳川茂承(紀州藩主)らにも意見を求めて上京を促した。10月12日から13日にかけて,老中以下の諸有司および在京諸藩の重臣らは二条城に招集されて慶喜の諮問をうけた。かくて,翌14日,永井尚志の起草になる大政奉還の上表文が朝廷に出された。そこでは200有余年にわたる幕府の失政への反省とともに,〈当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ,愈朝権一途ニ出申サズ候テハ,綱紀立チ難ク候間,従来之旧習ヲ改メ,政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ,広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ,同心協力,共ニ皇国ヲ保護仕候得バ,必ズ海外万国ト並ビ立ツ可ク候〉と述べられている。これは15日,勅許された。しかし,当時すでにこれを〈権略〉とみる見方もあった。つまり,〈大政奉還〉は,いったん政権が返上されても朝廷はこれをもてあまし,ふたたび政権は徳川慶喜に委任されるだろうという見込みのうえになされたというのである。事実,この時点で幕府内部では新たな政権構想が検討されていた。とくに奥祐筆所詰として慶喜の側近にあった西周(あまね)は,10月13日以降,新たな政権構想に関して慶喜と密接な交渉をもち,11月に〈議題草案〉として提出した構想(図参照)は,ヨーロッパの政治形態にならっていちおう三権分立のかたちをとるが,これまでの諸大名領はそのままとし,各藩それぞれの領国内の政治を議政院の立法の範囲で認め,軍事権は当面は諸大名がもつが,数年後は〈大君〉の中央政府へ統轄されるものとしている。この〈大君〉には慶喜がなり,各事務府の人事権は〈大君〉が握り,行政府の長としての〈大君〉は,上院の議長でもあり,下院の解散権ももち,両院でくいちがいがおこったときの裁定権も一手に掌握すると規定されている。そして,この西のプランでは,〈大君〉は外国の国王,あるいはサルタンまたはツァーに対比されているのである。これに対し,天皇の政治上の権限はすべて否定され,法の欽定権はあっても拒否権はなく,山城一国を与えられるにとどまる。明らかにこれは新たな徳川統一政権を意味していた。この〈大君〉制国家構想への見通しをもったがゆえに,慶喜の〈大政奉還〉はなされたとみてよい。そして,それが勅許されたことによって,同じ10月14日〈討幕の密勅〉を手に入れた討幕派は肩すかしをくったことになる。以後,討幕派は危機に追い込まれた。その打開のためにうたれたのが,討幕派による12月9日の王政復古のクーデタだった。
執筆者:田中 彰
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「大政」とは天下の政(まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。
薩長(さっちょう)を中心とした倒幕運動が進むなかで、土佐藩は、公議政体論の立場から幕府に政権を返上させ、幕府に政局の主導権をとらせようとした。すなわち、土佐藩参政後藤象二郎(しょうじろう)は、幕府の若年寄格永井尚志(なおゆき)(「なおむね」とも読む)と連絡をとり、前藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)の名で、10月3日、大政奉還建白書を老中板倉勝静(かつきよ)を通して将軍に提出した。これは坂本龍馬(りょうま)の「船中八策」の発想に基づくものであった。ついで6日、芸州(広島)藩も建白書を提出した。これを受けた徳川慶喜は、幕府の有司に意見をきき、ついで在京の諸藩の重臣(諸侯)を13日、二条城に集めて意見を求め、翌14日、大政奉還の上表文を武家伝奏日野資宗(すけむね)・同飛鳥井雅典(あすかいまさのり)に出した。
こうした慶喜の行動の背景には厳しい内外の政治情勢があったが、大政をいったん朝廷に返しても、いずれ政局収拾の主導権は慶喜の手中に収まり、公議政体論に基づく慶喜中心の「大君(たいくん)」制国家を創出しうるとみていたのである。
この日、薩長討幕派は「討幕の密勅」を得たが、大政奉還が翌15日勅許されたから、討幕派は足もとをすくわれ、ために、12月9日、討幕派による王政復古クーデターが敢行された。
[田中 彰]
『石尾芳久著『大政奉還と討幕の密勅』(1979・三一書房)』▽『萩原延寿著『大政奉還 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄6』(1999・朝日新聞社)』
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1867年(慶応3)10月14日,征夷大将軍徳川慶喜(よしのぶ)が申し出た朝廷への政権移譲。幕末には外圧に挙国一致で対処するため,天皇の下に雄藩の連合政権を組織しようという公議政体論が有力になった。しかし幕府は雄藩の政権参加を拒み続け,67年5月には有力4侯の反対をおして兵庫開港と長州処分の2懸案に決着をつけた。鹿児島藩倒幕派はこれを機に平和的交渉による公議の実現を断念し,萩藩と結んで武力倒幕を計画。これに対し高知藩は,鹿児島藩と公議政体の樹立について提携する一方,慶喜にはみずから政権の返上を申し出るよう勧めた。朝幕二元体制の限界を感じていた慶喜は,政権を一本化し大名の統治権もいずれ吸収しようと考えてこれに応じた。朝廷は翌15日この申し出を認め,新政体を定めるため大諸侯の会議を招集した。この政策転換は名古屋・福井・高知の諸藩の支持をえたが,従来深く慶喜と提携していた会津・桑名両藩は強い不満を抱き,薩長倒幕派も大諸侯会議より先にクーデタを敢行する方針をとった。
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…〈尊王倒幕論〉は,〈攘夷〉すなわち外国勢力を打破するためには,幕府を倒して本来の統治者である天皇が政治を行う国家をつくるべきだとするもので,当初は〈勤王の志士〉と称する民間の武士の間で主張されたが,長州や薩摩のような大藩が朝廷と結んで幕府に対抗するに及んで巨大な政治力となった。第2次長州征伐に失敗した幕府は1867年(慶応3),将軍徳川慶喜の手によって朝廷への政権返還を行ったが(大政奉還),慶喜の意図は準備の整わぬ朝廷方に形式的に政権を返上して徳川家の権力を実質的に保持しようとすることにあった。しかし,これを察知した長州・薩摩の朝廷方(大久保利通,西郷隆盛,木戸孝允)や岩倉具視らは,土佐の公議政体論をおさえ,徳川家の無力化を図って,1867年12月9日には自らの手で〈王政復古の大号令〉を発した。…
…そうして,この観念は単に尊攘派ないし尊王討幕派に限らず,幕府関係者の間にまで浸透する。明治維新の過程で将軍によって〈大政奉還〉がなされるのはこのためである。また,討幕派の間には〈天皇親政〉が日本本来の政治制度であるという観念が高まり,この意味で〈王政復古〉が主張される。…
※「大政奉還」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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