岩船町(読み)いわふねまち

日本歴史地名大系 「岩船町」の解説

岩船町
いわふねまち

[現在地名]村上市岩船・岩船上いわふねかん町・岩船新田いわふねしんでん町・岩船縦新いわふねたてしん町・岩船中新いわふねなかしん町・岩船横新いわふねよこしん町・岩船上浜いわふねかみはま町・岩船下浜いわふねしもはま町・岩船上大いわふねかみおお町・岩船下大いわふねしもおお町・岩船岸見寺いわふねがんげんじ町・岩船地蔵いわふねじぞう町・岩船港いわふねみなと町・岩船三日市いわふねみつかいち岩船北浜いわふねきたはま町・上の山かみのやま瀬波温泉せなみおんせん二―三丁目・八日市ようかいち

西は日本海に面し、東は七湊ななみなと(現岩船郡神林村)、北は浦田うらだ山・てら山を隔てて浜新田はましんでん村・松山まつやま村、南東は八日市村に接する。集落は丘陵砂丘に囲まれた低い盆地にあり、岩船潟の西端に位置する。七湊川・いし(支線)笛吹ふえふき川・ひやつ川が低地中央部に集まり石川(幹線)となり、町の北側を貫流して日本海に注ぐ。「日本書紀」大化四年(六四八)条にある磐舟柵いわふねのきは明確でないが、地理的にみて、あるいは岩船潟端の当町付近であろうと推定されている。

建武四年(一三三七)五月日の色部高長軍忠状案(色部氏文書)によれば、同月一六日高長らは「岩船宿」に向かい合戦したことがみえる。康永元年(一三四二)八月二日の源某等二名奉書(三浦和田氏文書)では「板賀井・腋川」(現岩船郡山北町)の人々が陰謀を企てているので、翌日「岩船」まで一族とともに馳せ参じるよう奥山おくやま庄の和田茂実に足利方から軍勢催促が出されている。翌二年と推定される一二月一六日付の藤原公房書状(同文書)でも「岩船」までの出陣要請が茂実に出されており、この頃当地は足利方の要地の一つであったとも考えられる。貞治七年(一三六八)四月一五日の色部長忍譲状(色部氏文書)には重代相伝の私領「越後国加納方色部・岩船并青嶋之地頭職」を嫡子鶴童丸を惣領として譲与するとみえ、小泉こいずみ庄加納のうちであった。中世の岩船は現八日市・三日市なども含む岩船潟西方の広い地域をさす。応永三年(一三九六)八月一〇日には色部氏長から嫡子熊童丸へ譲られ(「同譲状」同文書)、以後色部惣領に相伝された。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)には「巌船近藤大郎」として「五百地道祐入牌田永代地也毎年五俵定之 洲崎殿之分」などの記載がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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