日本歴史地名大系 「島戸浦」の解説
島戸浦
しまどうら
西は
承久四年(一二二二)の長門国留守所下文案(長門一宮住吉神社文書)に
とあり、関が設けられていたことが知られる。
島戸浦の成立は天文二〇年(一五五一)大内氏の残党が角島に渡り住みついた時、西某の率いる七、八十人がこの地に移住し、漁業によって生活し永住したという伝えがある。元和元年(一六一五)まで萩藩に属し、それ以後長府藩領となった。「地下上申」では海石二四石余、地方石六二石余(うち田方四七石余、畠方一四石余)、家数九一軒とあり、豊浦藩明細書では地方に一五軒、浦方に二〇一軒と記される。浦庄屋一人の下に畔頭二人があり、古くは肝煎ともよばれ、下に十人頭がいた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報