最初の賜姓源氏。814年(弘仁5)嵯峨天皇は勅により皇子女8人に源朝臣の姓を与え臣籍に下し,その後の賜姓を加え,男女32人が確認される。多くの子女を持つ天皇が,すべてを親王・内親王として待遇し国庫を費やすに忍びないというのが勅の趣旨であった。一世皇親賜姓の例は桓武朝にもみられたが,嵯峨朝の措置は本格的にその例を開いたものである。賜姓者は中小氏族出身者を母とするものが多い。彼らは皇位継承権から排除される一方,皇子女に閉ざされていた官僚社会への進出や,臣下への降嫁の途が開かれた。勅では彼らの位階の初叙は六位とされたが,現実にはほとんど四位以上で出身し,左大臣となった常(ときわ),信(まこと),融(とおる)など高官に昇るものも多く,また源潔姫(きよひめ)は藤原良房の妻となった。嵯峨源氏は数代後は上流貴族層から後退し,武士となる流もあった。この源氏は一字名を特色とする。源氏賜姓は以後多くの天皇により踏襲された。
→源氏
執筆者:黒板 伸夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…肥前国松浦郡(現,佐賀県東・西松浦郡,長崎県南・北松浦郡)に割拠した弱小武士集団。松浦地方には嵯峨源氏の末流と称する一族が平安時代以来土着しており,彼らは源姓で名前に一字名を名のっている。その経緯は明らかではないが,中央から肥前国司として下向した者や,在庁官人の子孫が土着したものと推定される。…
※「嵯峨源氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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