川島城跡(読み)かわしまじようあと

日本歴史地名大系 「川島城跡」の解説

川島城跡
かわしまじようあと

[現在地名]川島町川島

吉野川に突出した比高三七メートルの河岸段丘突端に占地し、西と北は吉野川に面している。戦国時代に川島兵衛之進の居城であったとされる。しかし兵衛之進は天正七年(一五七九)一二月二七日にわき(現脇町)城外の合戦で矢野駿河守・森飛騨守らとともに岩倉いわくら(現同上)で討死した(古城諸将記)。同一三年に阿波に封ぜられた蜂須賀家政は、当城を徳島城の支城(阿波九城)の一つとして大改修し、林能勝(道灌、俗に道感。のち図書と称する)を城番に配置し、兵三〇〇を付けて守らせている(城跡記・阿淡年表秘録)


川島城跡
かわしまじようあと

[現在地名]鯖江市川島町

明確ではないが、専立せんりゆう寺の東南方段丘上、通称法華三昧ほつけさんまいに館跡らしきものが残る。「越前国城蹟考」は朝倉観行院の城跡として「川島村際東方田畝之中五間計四方之城台二ケ所四間ニ一間計之窖、一ツ蓋石共有之、外古墳一所有之、一ツ藤之丸ノ紋有、三ツ破壊ス」と記す。

朝倉観行院は朝倉系図にも見いだせないが、晩年川島村に居住した元敦賀郡司の朝倉景紀のことと考えられる。同村加多志波かたしば神社に伝来した鬼面を収蔵した木箱に、「当地頭朝倉九郎左衛門尉伽藍如形修理等再興、同孫子共当所光厳寺元亀二年迄七ケ年之間御在庄候」との墨書があり、景紀は元亀二年(一五七一)まで七ヵ年間川島光厳こうごん寺に居住したとあるが、寺院即城館と考えられ、谷野一栢の「八十一難経」を同四年に筆写したという宗陽なる人物の奥書(現滋賀県伊香郡高月町布施家蔵本)にも「避兵ヲ於越前偶得此本而後次一栢老人自筆之□ヲ於河□光厳精舎写之畢矣」とみえる光厳精舎と同じものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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