与力(読み)ヨリキ

デジタル大辞泉 「与力」の意味・読み・例文・類語

よ‐りき【与力】

(「寄騎」とも書く)室町時代、大名や有力武将に従う下級武士。戦国大名には、侍大将足軽大将など上級家臣を寄親よりおやとし、その指揮下に属した騎馬の武士。
江戸時代、諸奉行大番がしら書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた。
加勢をすること。
「―のともがら誰々ぞ」〈平家・一〉
[類語]同心岡っ引き御用聞き目明かし・下っ引き

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精選版 日本国語大辞典 「与力」の意味・読み・例文・類語

よ‐りき【与力・寄騎】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( ━する ) 加勢すること。助力すること。また、その軍勢・勢力。
    1. [初出の実例]「爰に貞盛は、事を左右に行ひ計を東西に廻らして、且つ新皇の妙屋より始めて悉く与力の辺の家を焼掃ふ」(出典:将門記(940頃か))
    2. 「国々に内通の与力(ヨリキ)の大名多ければ」(出典:仮名草子・身の鏡(1659)下)
  3. 室町・戦国時代、諸大名・部将などに属する武士。助勢のため、侍大将・足軽大将に付属する武士。〔文明本節用集(室町中)〕
    1. [初出の実例]「其後長井藤左衛門尉を頼み、扶助をうけ余力(ヨリキ)をも付られて」(出典:信長記(1622)一上)
  4. 江戸時代、諸奉行をはじめ、所司代、城代、留守居、大番、書院番、火消役などに付属し、その組の頭を助けて庶務をつかさどったもの。それぞれ支配者の名が冠せられ、町奉行組与力(町与力)、御旗奉行組与力、大御番与力、火消役組与力、百人組与力、御留守居番与力などと呼ばれた。御目見以下(御家人)から選任され、配下に同心が付された。〔営中御日記‐九・寛永九年(1632)一二月一九日〕

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改訂新版 世界大百科事典 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力 (よりき)

本来,力を与(とも)にして加勢する人を意味する語で,鎌倉時代から見られ,寄騎とも書いた。戦国時代,大名が家臣団を編成するにあたり,有力部将を寄親とし,これに寄子としてその指揮に従う武士を付属せしめ(寄親・寄子),これを寄騎(与力),同心などと称したが,このうち与力は,何騎と数えられるように騎乗の武士であり,地侍・小領主層の出身者であったと考えられている。このほか郡代,奉行などの役職にも,与力,同心が付属せしめられ,これが江戸時代の与力,同心の前身であったとされている。江戸時代の与力は同心とともに一つの職名であって,町奉行,遠国(おんごく)奉行,先手頭(さきてがしら)などに付属した職であった。

 町奉行所付属の与力(町与力)は,町奉行配下の中核的職員であり,同心を指揮して職務を遂行した。定員は1719年(享保4)に江戸の南・北両町奉行所各25名と定められ,このうち各23名は幕臣,残り各2名は内与力と称して奉行個人の家臣があてられた。幕臣たる与力の身分は,御目見(おめみえ)以下すなわち御家人であるが,石高200石と騎乗の特権を与えられていた。住居は同心と同じく京橋八丁堀に組屋敷を与えられ,このため八丁堀の旦那と呼ばれた。形式上は一代抱えであるが,事実上は世襲の職であって,13,14歳で見習として出仕したのち,与力に採用され,しかも他への転勤はなく一生町奉行所に勤務するものであったから,職務にはよく精通していた。その職掌は役所全般を取り締まる年番方(ねんばんかた),裁判を行う吟味方,刑事判例を調べる例繰方(れいくりかた),牢屋の事務を監督する牢屋見廻(みまわり),恩赦を扱う赦帳撰要方,町火消を指揮する町火消人足改,小石川養生所を扱う養生所見廻,本所深川に関する事務を行う本所方,烈風のとき市中を見回り警戒する風烈見廻等や,裁判,警察を中心に,市政一般にわたる多くの分課に分かれた。なかでも吟味方与力(定員10名)は重職で,町奉行に代わって町奉行所の裁判を実際に遂行したのであり,勘定奉行配下の評定所留役(ひようじようしよとめやく)と並んで,幕府裁判の中心的担い手として,幕府法の発達に大きく寄与した。したがってまた彼らは,幕府法の内容を探知し参考にしようとする諸藩からの依頼を受けて,幕府法を教示することも多く,藩法の幕府法化を促す契機の一つともなった。

 このほか,遠国奉行京都町奉行大坂町奉行奈良奉行山田奉行など)の配下にも通常与力,同心があり,それぞれの分課に分かれて裁判,警察その他の職務を担当していたが,ここにおいても,裁判関係の分課にあっては,与力が実質的に裁判担当者であった。また先手頭が兼任していた火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)は,みずからの配下の与力,同心を率いて,主として警察官的職務を遂行していた。
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百科事典マイペディア 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力【よりき】

(1)本来は力を与(とも)にして加勢する人の意。寄騎とも。戦国時代には有力武将(寄親(よりおや))に加勢または付属した下級武士(寄子(よりこ))を与力,あるいは同心というようになった。→寄親・寄子(2)江戸幕府の職名。町奉行遠国奉行(おんごくぶぎょう),所司代(しょしだい),大番頭(おおばんがしら),書院番組頭(しょいんばんくみがしら),先手頭(さきてがしら)などに付属し,警察,庶務,裁判事務などを担当。町奉行支配下の町方与力が有名。町与力は八丁堀(はっちょうぼり)に組屋敷を与えられ,1719年以降南北各25騎,200石高。
→関連項目大坂定番加藤千蔭定火消

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力
よりき

寄騎とも書く。鎌倉・室町時代に起源をもち、戦国時代に一般化し、同心(徒歩(かち))とともに侍(さむらい)大将などに付属した騎馬の士をいう。江戸幕府では諸奉行(ぶぎょう)、京都所司代(しょしだい)、留守居(るすい)、大番頭(おおばんがしら)、書院番頭、先手(さきて)頭などの配下にあって同心を指揮した。なかでも江戸、大坂その他の町奉行配下の町与力が有名である。1745年(延享2)江戸の南北両町奉行所には各25騎の与力が付属していた。この一般の与力(150~200石、御目見(おめみえ)以下、役上下(やくかみしも))のほかに公用人・目安方(めやすがた)を勤める内与力(うちよりき/ないよりき)というものがあり、これには町奉行の家臣が任命された。

 与力は奉行所の中枢を掌握する実力者であり、身分は一代限りの抱席(かかえせき)であったが、実際には譜代(ふだい)同様に世襲された。その職掌には年番(ねんばん)方(財政、人事)、吟味(ぎんみ)方(詮議(せんぎ)役)、例繰(れいぐり)方(判例の整理、調査)、赦帳撰要(しゃちょうせんよう)方、市中取締諸色調掛(しょしきしらべがかり)、町火消(まちびけし)人足改(あらため)、町会所(まちがいしょ)掛、本所見廻(みまわり)、牢屋(ろうや)見廻、養生所見廻などがあり、このほかに臨時の分掌、多くの出役(でやく)があった。年番方、吟味方などの重要な役目を担当する者は、大名、旗本、富商から公然と金品が贈られ、家計は豊かであったという。京橋八丁堀(東京都中央区)の組屋敷(250~300坪)に住み、八丁堀銀杏(いちょう)という髪型を結い、羽織に袴(はかま)を着け、八丁堀の旦那(だんな)衆といわれた。その妻女は殿様(与力はその格式にない)に対する奥様の称でよばれた。

[北原章男]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「与力」の解説

与力
よりき

江戸幕府の職名。鎌倉時代には加勢すること,またその人を意味したが,室町・戦国期には大名や武将に付属して騎乗する武士をいい,人数を騎で数えた。江戸時代には諸役所の奉行・所司代・留守居・番頭・物頭などに付属して頭を助け,各組配下の同心を指揮して任務を遂行。役方の職では在任期間の短い奉行に比べて長期間在職し,職務に練達した与力は実質上中心的な役割をはたした。1711年(正徳元)合計1176騎。そのうち最多人員は先手与力の251騎。江戸の町与力は町奉行2人で2組50騎。家格は御目見以下の御家人で,譜代席・一代限りの抱席(多く世襲)であった。給与は給地200石,切米200俵,現米80石などで表され,実質的に大差ないが一定しなかった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力
よりき

寄騎とも書く。力を合せて加勢をする意であったが,室町時代以降には,大名や有力武士に従属する下級武士をさした。江戸時代には,町奉行の支配下で江戸の司法,警察など治安維持にあたった。一般の与力と内与力があった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「与力」の解説

与力
よりき

江戸幕府の下級役人
「寄騎」とも書き,中世には,大名に隷属する武士の称。江戸幕府はおもな役職に同心とともに配属し,上官の補佐にあたらせた。町奉行配下の町方与力は,町奉行を補佐し,江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。

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世界大百科事典(旧版)内の与力の言及

【大番】より

…幕府開設後の1607年(慶長12)大御所家康の膝下駿府にまた3組が編成され,その後32年(寛永9)にさらに3組が取り立てられてつごう12組となり,以後これが定数となった。各組は大番頭1人(老中支配,菊間詰,諸大夫),大番組頭4人(頭支配,躑躅間詰,御目見以上),大番士50人(頭支配,御目見以上),与力10人(御目見以下,役上下,御抱場),同心20人(御目見以下,御抱場)で編成された。1723年(享保8)の制では,大番頭は役高5000石,大番組頭は600石,大番士は200石,与力は現米80石,同心は30俵二人扶持であり,役料は支給されず,そのかわりに在番中はそれぞれに役高の1倍の合力米が与えられた(ただし,1万石以上のものが大番頭になったときには1万石を支給する)。…

【同心】より

…もとは同意・協力する人を意味したが,戦国時代には,大名の家臣団編成において寄親たる上級家臣(部将)の組下に編入され,その指揮に従う武士を,寄騎,与力,寄子,同心などと称した。このうち同心は与力の何騎に対して何人と数えられ,主として在地の名主層出身のものであったといわれる。…

【八丁堀】より

…明治以後,堀は桜川と改称されたが,昭和40年代に一部を残して埋め立てられた。八丁堀には,元禄年間(1688‐1704)以降江戸町奉行所の与力・同心約300人の組屋敷があり,与力は〈八丁堀の旦那〉とよばれ,300坪前後の土地を拝領していた。冠木(かぶき)門などを構えて敷地の奥に住み,一部を儒者や医者に貸していた。…

【町奉行】より

…1795年(寛政7)より1811年(文化8)までの北町奉行所の1ヵ年支出平均は1991両余である。両町奉行配下の与力(200石,50騎),同心(30俵2人扶持,200人のち280人)はそれぞれ職務を分担し,18世紀以降は仕事が細分化したため,1人でいくつもの役掛を兼任した。例えば天保改革期のおもな役掛は年番,本所見廻,牢屋見廻,養生所見廻,火事場人足改,高積見廻,風烈廻,昼夜廻,吟味方,赦帳撰要方,例繰方,定橋掛,町会所掛,猿屋町会所見廻,古銅吹所見廻,市中取締掛などのほか,北町奉行所には米蔵酒宿掛,酒造調掛,町入用減少掛,十組跡調掛,南町奉行所には御肴掛,市中沽券同人別掛,諸書物編集掛などがあった。…

【寄親・寄子】より

…親子関係に擬して結ばれた保護者・被保護者の関係。戦国大名の家臣団組織の中で,寄親は指南,奏者などとも呼ばれ,寄子は与力(寄騎),同心とも呼ばれた。邦訳《日葡辞書》では,寄親を〈ある主君の家中とか,その他の所とかにおいて,ある者が頼り,よりすがる相手の人〉,寄子を〈他人を頼り,その庇護のもとにある者。…

※「与力」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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