川島村(読み)かわしまむら

日本歴史地名大系 「川島村」の解説

川島村
かわしまむら

[現在地名]延岡市川島町・神戸町こうべまち東海町とうみまち追内町おいうちまち水尻町みずしりまち白石町しらいしまち鹿小路かしようじ須佐町すさまち差木野町さしきのまち大峡町おおかいまち二ッ島町ふたつじままち

粟野名あわのみよう村の北東、大武おおたけ町の東に位置し、きた川河口の三角洲および同川下流域低地および後背丘陵に立地する。東から南は海に面し東海浦がある。主集落は低地にあるため水害が多かった。川嶋・河島とも記す。豊後街道が通る。天永元年(一一一〇)一一月日の今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)に河島とみえ、八月彼岸会の礼拝講僧膳河北役二一膳のうち四膳を負担し、一〇月の放生会の河北分の屋形三間、御庁夕饗五一膳のうち五膳などを負担している。

寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高五三一石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚では内検高八六六石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高五三一石余・出高二五一石余、新田高五九石余・新田出高四三石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳では高七八三石余・新田高一六三石余。


川島村
かわしまむら

[現在地名]西京区川島〈有栖川ありすがわ町・粟田あわた町・梅園うめぞの町・北裏きたうら町・五反長ごたんおさ町・権田ごんでん町・桜園さくらぞの町・尻堀しりぼり町・竹園たけぞの町・玉頭たまがしら町・調子ちようし町・寺田てらでん町・流田ながれだ町・滑樋なめらひ町・野田のだ町・東代ひがしだい町・松園まつぞの町・まつ木本きもと町・三重みえ町・莚田むしろでん町・ろくつぼ町〉・御陵南荒木ごりようみなみあらき

葛野かどの郡最南端の村。山陰道と西国街道が合する交通の要地にあり、北を下桂しもかつら千代原ちよはら、東を下津林しもつばやし、西は御陵みささぎ・岡の各村に接し、南は乙訓おとくに郡(現京都府向日むこう市)に接する。村名は古代の川嶋郷(和名抄)、また中世の革島庄に由来する。


川島村
かわしまむら

[現在地名]安曇川町川島

安曇川南岸に位置し、東は南船木みなみふなき村、南は藤江ふじえ村。天智天皇の皇子川島皇子の御領であったところから村名となったという(高島郡誌)。川島皇子は常に松を愛したと伝え、川島の松は名所で歌枕とされた。「和歌初学抄」「八雲御抄」は川島の松を摂津国にあてるが、「江帥集」の「かはしまやふなきの浜の岩ちどりおのれがなをばとしとたのまん」は明らかに当地を詠んだものであろう。「蔭涼軒日録」延徳三年(一四九一)九月八日条に「栖芳軒領高島郡川島正光寺領」とみえる。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に川しまとあり、高一千二一一石余。寛永石高帳に村名がみえ、高一千六〇〇石余。正保郷帳では大溝藩領一千三五四石余と膳所藩領二四六石余とある。


川島村
かわしまむら

[現在地名]鯖江市川島町

三里さんり山の北東麓にあり、村のほぼ中央を北西に鞍谷くらたに川が流れる。西は中野なかの村、北は落井おちい村、東は新堂しんどう(現今立郡今立町)。地名は天正一一年(一五八三)の羽柴筑前守秀吉禁制状(武内家文書)に「越前国河嶋」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今北東郡に「河嶋村」とあり、高一七八四・五石。正保郷帳によれば田方一千四〇八石余・畠方三七五石余。元禄郷帳から「川島村」となる。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となる。文化一四年(一八一七)の小物成は夫米・糠・藁のほか山手・茶役・木挽役・鍛冶役があった(「越前国西鯖江御領分御物成郷帳」武生市立図書館蔵)


川島村
かわしまむら

[現在地名]田島町川島

中荒井なかあらい村の南西に位置し、北西端を荒海あらかい川が北東流する。下野街道の宿駅村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に河島村とみえ、高五六八石余。南山御蔵入領川島組に属し、郷頭が置かれていた。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」には関本せきもと郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「長江庄郷村地方風俗帳」でも関本郷のうちで、「町割南北」「駅舎也」とある。寛永一四年(一六三七)会津藩主加藤氏によって田島宿と糸沢いとざわ宿の間宿として宿駅に指定され(「糸沢村覚書」田島町史)、明暦元年(一六五五)町屋まちや尾出おいで金地かなじ川島前かわしままえ(一説に大宮とも)・川島の五集落を集めて宿駅が形成されたという(明治二年「川島宿由緒書上」星家文書)


川島村
かわしまむら

[現在地名]保土ヶ谷区川島町・東川島ひがしかわしま町・西谷にしや町、あさひ区川島町・西川島にしかわしま

都筑つづき郡に属し、東から南は上星川かみほしかわ村、橘樹たちばな坂本さかもと村・仏向ぶつこう村、西は市野沢いちのざわ村・三反田さんたんだ村・二又川ふたまたがわ村・白根しらね(現旭区)、北は新井あらい新田・上菅田かみすげた村・上星川村に接する。北方を東西に八王子道が通り、北西から南東に帷子かたびら川が流れる。小田原衆所領役帳に中田加賀守「拾壱貫五百五十文 小机川島」とある。

寛永一九年(一六四二)旗本山本領、延享四年(一七四七)幕府直轄領。天保(一八三〇―四四)頃の村明細帳(村明細帳の研究)では田一四町六反余、畑一一九町七反余。元禄二年(一六八九)四月の保土ヶ谷宿助郷村高道程覚書(県史九)では助郷高二七七石余を保土ヶ谷宿と神奈川宿(現神奈川区)に勤めている。


川島村
かわじまむら

[現在地名]穴水町川島・由比ゆいおか

山王さんのう川・小又おまた川が合流した下流左岸にあり、川を挟んで対岸は大町おおまち村。河島とも記される。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によれば、南北なんぼくのうち穴水川島で棟役を負担する役屋は一八間とある。天正一〇年(一五八二)一〇月一〇日、前田利家が河島の七郎兵衛に、当村のうちで一〇俵の扶持を与えている(「前田利家黒印状」高橋文書)。同年から一一年にかけて当地方の百姓に七尾築城用木材輸送・人夫・鍬持参などが命じられた(「前田利家印判状」同文書)。同一三年の年貢算用状(同文書)によれば高三七一俵余、扶持高は二人分で二五俵。


川島村
かわしまむら

[現在地名]四日市市川島町・三滝台みたきだい

河島とも記す。小生こも村の西、三滝みたき川の南に位置し、村の南を鹿化かばけ川が東流する。「神鳳鈔」に「一名河島又号外山田北山田御厨上分田六丁、内宮、一石六九十二」とあり、古く北山田きたやまだと称していたことが知られる。年欠ではあるが文明年間(一四六九―八七)以降と考えられる伊勢国智積・川嶋山田境指図(醍醐寺文書)には、北の石塚いしづか(現尾平町付近)から別所堂べつしよどう(現川島町別所谷)を結びさらに南に延びるところに「智積と川嶋山田との本境」とあり、この線より東が川嶋山田であった。


川島村
かわしまむら

[現在地名]飯塚市川島

嘉麻かま郡に所属。遠賀おんが川中流域、鯰田なまずた村の南西にある。貞和四年(一三四八)一二月五日の宇佐光永譲状案(到津文書/南北朝遺文(九州編)三)によれば「立岩別符一方」が宇佐利輔に相伝されており、この文書に「於去康永三年十月二日河嶋村不慮子細出来之時分、地下文書以下少々令紛失」とみえ、宇佐宮領であった当地にも社会不安が出現していた。正平九年(一三五四)四月二五日の八幡宮神体台面銘(嘉穂郡誌)によると、「大願主大旦那鯰田太郎藤原朝臣道経」が宇佐宮の裁許を受けて八幡大菩薩像を川島村に勧請したという。


川島村
かわしまむら

[現在地名]睦沢町川島、茂原市川島飛地かわしまとびち東部台とうぶだい

上市場かみいちば村の北東に位置し、埴生はぶ川が当地北西部で一宮いちのみや川に合流する。東は一宮本郷いちのみやほんごう(現一宮町)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六〇〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では金田組に属し、高一八〇石が信濃飯田藩領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高六三九石余で家数一〇五、旗本脇坂領(旧高旧領取調帳では高六〇〇石)と幕府領(同三九石余)。元禄一二年(一六九九)の田三三町余・畑四〇町余で、享保二〇年(一七三五)二四町余・三九石余の高入れがあり、宝暦六年(一七五六)に新畑三町三反余が開かれている(睦沢町史)


川島村
かわしまむら

[現在地名]安城市川島町

東は矢作川に沿い、西を東鹿乗ひがしかのり川が西南流する。北は河野かわの村、東は村高むらだか村、南は小川おがわ村、西は桜井さくらい村に隣する。桜井・川島・村高三村の辺りを、古代は藤野ふじの郷と称した。「夫木抄」に藤原宗国の一首がある。

<資料は省略されています>

古代志貴しき庄に属する。

藩政期の支配は、初め荒川右馬之助領、貞享二年(一六八五)幕府領、そして正徳五年(一七一五)数原通玄領、享保一〇年(一七二五)岡崎藩領、天明二年(一七八二)巨勢六左衛門領に三分された。


川島村
かわしまむら

[現在地名]渋川市川島

南牧なんもく村の北西、吾妻あがつま川右岸にある。天正一〇年(一五八二)六月二二日の北条家禁制(福島文書)が「川嶋」などに下されている。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では、高崎藩領。高四八四石余、田方一九町余・畑方三六町余。元禄郷帳では幕府領。延享四年(一七四七)には六八六石余で、同年からもくばし関所付とされた(「関所付新規村々年貢減免請書」岸文書)


川島村
かわしまむら

[現在地名]糸魚川市川島

うみ川右岸にあり、対岸は田中たなか村。川に沿って川島・稲坂いなさかの集落がある。草分は信濃国の移住者と伝える。正保国絵図に高一三三石余とある。天和二年(一六八二)には大貫だいかんなかたいらの田二四〇刈を庄屋給、たけはな八〇刈を中使給と村内で申合せている(糸魚川市史)。天和三年郷帳に高一一三石余、うち山高六斗四升とある。貞享元年(一六八四)川島村持の谷川たにがわ山に、真光寺しんこうじ村の庄屋・百姓が押込み、草木を盗伐した。


川島村
かわしまむら

[現在地名]蓮田市川島・ひがし三―四丁目・桜台さくらだい一―三丁目

蓮田台地の南東部に位置し、元荒川右岸の自然堤防上にある。東は元荒川を隔てて笹山ささやま村。同川に沿って水除堤があり、川島橋という土橋が架けられていた(風土記稿)。寛永期(一六二四―四四)に岩槻藩阿部氏の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高六五石余・畑高八五石余。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によれば高三一六石余、この間新田開発が盛んに進められたことがわかる。延宝八年(一六八〇)の人数は一七五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)


川島村
かわしまむら

[現在地名]大野市川島

真名まな川の右岸にあり、東は上麻生島かみあそうじま村、南東は田野たの村。正保郷帳には「西嶋村」と記され、田方一一八石余・畠方七石。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)大野藩領、天和二年(一六八二)幕府領福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄五年(一六九二)美濃国郡上藩領となる。

川島村と記される最初は寛政五年(一七九三)五月の田地新開ニ付用水引方取極証文写(林家文書)であるが、「越前国名蹟考」や文政元年(一八一八)一一月のけん蔵用水出入済口証文(林家文書)ではなお西島村を用いる。


川島村
かわしまむら

[現在地名]多古町川島

南玉造みなみたまづくり村の東、栗山くりやま川から東に延びた支流土仏どぶつ川沿いにある。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高九八石余、幕府領・旗本中根領の相給で、飯高いいだか(現八日市場市)枝郷と注記される。弘化二年(一八四五)関東取締出役控帳では家数一七、旗本中島・中根領各四九石余。


川島村
かわしまむら

[現在地名]金砂郷村松栄まつざか

あさ川の最下流西側にあり、村の西を久慈川が流れる。西は上新地かみあらじ村と下新地村。「常陸国北郡里程間数之記」に「此村往古水害の為ニ瓜連村より分村となりしと云伝ふ」とみえ、「新編常陸国誌」には「コノ地、北ハ山ヲ負ヒ、西ハ久慈川ヲ帯ビ、東ハ山田川ヲウケ、中間亦浅川ノ流アリ、川島ノ名ハ、蓋コヽニ起ル、中世佐竹ノ一族、此処ニ住シテ、革島氏トナル」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「川島村」とみえる。

藤田東湖の天保二年(一八三一)の「巡村日録」(水戸藤田家旧蔵書類)に「川島の水除元禄年中出来候由」とある。


川島村
かわしまむら

[現在地名]旭区川島町・西川島にしかわしま町、保土ほど区川島町・東川島ひがしかわしま町・西谷にしや

川島村(保土ヶ谷区)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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