朝日日本歴史人物事典 「巨勢堺麻呂」の解説
巨勢堺麻呂
生年:生年不詳
奈良時代の公卿。名は関麻呂とも書く。孝徳朝の大臣徳太(徳太古)の曾孫で子邑治の子。伯父の中納言邑治の養子となり要職を歴任した。天平14(742)年1月,従五位下に昇進,17年9月には従五位上で式部少輔に,翌年には同大輔に,さらに天平勝宝1(749)年7月,従四位下へ昇進を重ねた。同年8月,藤原仲麻呂が長官である紫微中台の少弼を兼任,同9年5月には従四位上に昇進した。その翌月,藤原仲麻呂暗殺計画の情報を得ていち早くこれを仲麻呂に通報,橘奈良麻呂の陰謀を未然に防いだ功により同年7月,従三位に昇進した上,兼任の官職も右大弁から左大弁に昇格,同8月には参議に任じられて国政を審議する議政官の仲間入りを果たした。紫微中台での地位も大弼に昇格,天平宝字2(758)年には仲麻呂が行った官司官職名の唐風化に関与。めざましい昇進ぶりは,政治的には一貫して藤原仲麻呂の陣営に属し,同派の勢力拡大に貢献したためと思われる。仲麻呂失脚(764)以前に死去したため,幸いにも高官として一生を全うすることができた。
(清田善樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報