中国、唐代の詩人、画家。字(あざな)は摩詰(まきつ)。李白(りはく)、杜甫(とほ)に次ぐ盛唐期の大詩人で、仏教信者であったために、詩仏と称される。自然詩の第一人者とされ、客観的で静寂な叙景に優れるほか、送別詩、宮廷詩などの分野においても一流である。
蒲州(ほしゅう)(山西省)に生まれ、家は土地の小豪族だったらしい。母は熱心な仏教信者で、王維に強い影響を与えた。15歳ごろに首都長安に上り、皇族貴顕の邸宅に出入、美貌(びぼう)と詩、音楽、美術の多方面の才能で、玄宗初期、最盛期唐代の社交界の人気者となった。しかし、進士及第後まもなく、済州(せいしゅう)(山東省)に左遷されてから、40代の初めまで不遇がちで、一時は涼州(甘粛(かんしゅく)省)にいたこともある。このころ妻を失い、生涯再婚しなかった。天宝年間(742~755)には、長安の官界に返り咲き、順調に昇進し、長安の南の郊外の輞川(もうせん)に広大な別荘を構え、宮廷詩人として盛名をかちえる一方、輞川では休暇の日に親しい友人と、芸術と信仰に明け暮れる毎日を過ごした。その生活のなかから生まれた『輞川集』は、五言絶句20首、親友裴迪(はいてき)の同詠をあわせて40首の連作で、輞川荘を浄土に見立てた叙景詩の傑作である。安禄山(あんろくざん)の乱にあたり、捕虜となり、のちに解放され、唐に対する忠誠を認められて、軽い処分ですんだが、決然たる行動をとりえなかったことを自己批判し、仏教による世界の救済を夢み、詩への関心は後退した。尚書右丞(うじょう)の官にあったときに死んだので、王右丞ともよばれる。『王右丞文集』10巻を伝える。彼のファンだった代宗皇帝が「天下の文宗」とよんだように唐一代、最高の詩人とされた。「独り幽篁(ゆうこう)の裏(うち)に坐(ざ)し、琴を弾じ復(ま)た長嘯(ちょうしょう)す。深林人知らず。明月来たりて相照らす」(竹里館)
[入谷仙介]
王維は画にも秀(すぐ)れ、自らも前世はまさに画師なるべしと詩に書いている。その画業として長安の慈恩寺など寺院の障壁に白描(はくびょう)や金碧青緑(きんぺきせいりょく)の山水画を描いたことが知られ、山水画に名があり、当時すでに一部の人々から絶賛されていた。画風は一様ではなかったと考えられるが、王維の高潔な人格や自然を楽しむ田園詩人としての態度などから、明(みん)代の董其昌(とうきしょう)はその『画禅室随筆』中の南北画論で王維を北宗画(ほくしゅうが)の李思訓(りしくん)と対置して南宗画(文人画)派の祖とし、水墨山水画の創始者とし、画人王維の名を高からしめた。また宋(そう)の蘇東坡(そとうば)が詩と画に卓越した王維を「摩詰(まきつ)の詩を味わう、詩中に画有り、摩詰の画を観(み)る、画中に詩有り」と評したこともよく知られている。しかし王維がどのような様式の山水を描いたのかは、王維画を模したとする『輞川図巻』が少なからず知られてはいるが、確実な遺品が現存していないため、よくわかっていない。
[星山晋也]
『都留春雄注『中国詩人選集6 王維』(1958・岩波書店)』▽『小林太市郎・原田憲雄著『漢詩大系10 王維』(1964・集英社)』▽『小川環樹他訳『王維詩集』(岩波文庫)』
中国,盛唐の詩人。字は摩詰。太原(山西省)の人。9歳で詩を作るなど,年少のころから多芸をもって知られ,上流階級のサロンの花形であった。開元7年(719),進士に及第し,給事中まで進んだ。安禄山の乱に際し,心ならずも偽政府に仕え,乱平定後,重罪に問われようとしたが,弟(縉(しん))の助命運動などにより,死刑を免れた。のち昇進して尚書右丞に至ったので王右丞とも呼ばれる。生前の詩名は,李白,杜甫をはるかにしのぐ。〈空山人を見ず,但だ人語の響くを聞く〉などの詩句で知られる《輞川(もうせん)集》は,親友裴迪(はいてき)と唱和した作品を収める。輞川には彼の別荘があり,晩年は,亡母・亡妻を追福しつつ,焚香修禅の日をすごしたという。静謐(せいひつ)な山水美を描いて第一人者との評があるが,その新しい自然美の創造は,熱心な仏教信仰と関連するといわれ,彼の名と字を続けると〈維摩詰(ゆいまきつ)〉,すなわち仏典《維摩経》の主人公になる。詩のみならず,多彩な才能は,音楽,書道,絵画などにも発揮され,とりわけ絵画においては山水画に長じ,後世南宗画の祖と仰がれた。宋の蘇軾(そしよく)は〈摩詰の詩を味わえば,詩中に画有り,摩詰の画を観れば,画中に詩有り〉と批評している。《王右丞集》10巻は宋代のテキストが伝わる。
執筆者:荒井 健
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701頃~761
唐中期の詩人,画家。太原祁(き)(山西省太谷県)の人。字は摩詰(まきつ)。自然の美を歌い,個性的な山水画を描いた。給事中のとき安史の乱にあい,捕われて乱軍の官を受けたが,乱後ゆるされて尚書右丞(うじょう)に至った。後世南画の祖とされる。
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…また5世紀の宗炳(そうへい)の《画山水序》は,枠に絹を張って風景を透かして見て,その上に絵を描く法を説いており,透視画法の先駆とされている。さらに,唐代の王維の著と伝える《山水論》に,〈遠人に目なく,遠樹に枝なく,遠山に石なくして,隠隠として眉のごとし。遠水に波なくして,高きこと雲にひとし〉というのは,遠近表現の手法を示すものであり,近いものは濃く,遠いものは薄く表すという空気遠近法につながる一面もある。…
…8世紀半ばの安史の乱以後は,宮廷文学の基盤となった貴族制社会の崩壊によって,文学はしだいに宮廷から離れていった。盛唐の王維は,宮廷文学の伝統を受けついだ最後の大詩人といってよい。【興膳 宏】。…
…六朝を通じて,山水詩は大いに繁栄したが,〈余霞は散じて綺(あやぎぬ)を成し,澄江は静かなること練(ねりぎぬ)の如し〉などの名句で知られる謝朓(しやちよう)がすぐれる。唐に入り,王維が山水詩と田園詩とを総合して美しい静寂の世界を表現し,山水田園を通じて最高の境地に達したと仰がれる。それとともに,農民生活をリアルに見つめ,杜甫などによる社会詩への発展の契機を示す。…
…大詩人が群をなして出現するのは8世紀(盛唐)であった。この時期の三大詩人の出身をみると,王維と杜甫は下級貴族だが,李白の父は商人であったらしい。この3人がそれぞれ異なる宗教の信徒であることは注意すべきで,王維は仏教,李白は道教の信仰をもっていた。…
…李嶠(りきよう)(644‐713)の《雑詠》のごとき〈詠物〉の律詩の集が熟読されたことも,初唐の詩の影響の大きさを示すものであり,《凌雲集》以下の諸詩集に見える古体詩が盛唐以後の古体詩とスタイルを異にするのは,やはり初唐詩家の作を学んだものと思われる。 盛唐(710ころ‐765)の詩の名家は多いが,王維,李白,杜甫を例としよう。3人はそれぞれ異なった思想の持主で,王は仏教,李は道教の信徒であり,儒学の信念を守ったのは杜甫だけであった。…
…南宗画の基本的な立場は,刻画(細かく輪郭づけて描く)よりも渲染(せんせん)(水墨でぼかす),行家(こうか)(くろうとで匠気をもつ)よりも利家(りか)(しろうとで士気をもつ)というもので,様式的には細密巧緻で濃厚豊麗なものより,簡略粗放で軽淡清雅をよしとし,精神的には技巧に基づく客観主義より文人的教養を伴った人格表現を重視した。 南宗画という命名の由来は,当時流行の禅宗趣味(董其昌はかなり禅学に没頭している)から,五祖弘忍(ぐにん)の後が,神秀(じんしゆう)の北宗禅の漸修と,慧能(えのう)の南宗禅の頓悟とに分かれ,慧能が六祖を継いでから簡略を旨とする南宗禅が栄えたことになぞらえて,画にも北宗,南宗の別があるとし,その起源も禅宗と同じく唐にまでさかのぼり,北宗は細密な輪郭線によって着色山水を描く李思訓に始まり,南宗は渲淡によって李思訓らの鉤斫(こうしやく)(輪郭でくくる)の法を一変した王維に始まり,画でも禅の頓悟に比せられる南宗画が栄えたという。莫是竜によれば,北宗は李思訓,李昭道,趙幹,趙伯駒,趙伯驌,馬遠,夏珪とつながり,南宗は王維,張璪,荆浩,関仝,郭忠恕,董源,巨然,米芾(べいふつ),米友仁,元末四大家(黄公望,呉鎮,倪瓚(げいさん),王蒙)と続くとするが,董其昌,陳継儒のいう系譜とはやや異なる。…
…中国,唐代の王維の別荘輞川荘を描いた図巻。盛唐の詩人王維は,藍田(陝西)に輞川荘を営み,画家としてみずから壁画輞川図を描いたが,五代以後になると,王維の詩を基に,その勝景20を描いた横巻形式の輞川図が盛んに制作された。…
※「王維」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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