観世音寺(読み)カンゼオンジ

デジタル大辞泉 「観世音寺」の意味・読み・例文・類語

かんぜおん‐じ〔クワンゼオン‐〕【観世音寺】

福岡県太宰府市にある天台宗の寺。山号は清水山。院号は普門院。開創は天平18年(746)、開山は満誓筑紫で崩じた母斉明天皇のため天智天皇が発願建立した。天平宝字5年(761)に設けられた戒壇院は、東大寺下野しもつけ薬師寺とともに三大戒壇とされた。国宝の梵鐘ぼんしょうをはじめ、不空羂索観音像・十一面観音像(重文)など寺宝が多い。観音寺かんのんじ

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精選版 日本国語大辞典 「観世音寺」の意味・読み・例文・類語

かんぜおん‐じクヮンゼオン‥【観世音寺】

  1. 福岡県太宰府市にある天台宗の寺。山号、清水山普門院。天智天皇の発願で天平一八年(七四六)完成。奈良の東大寺、栃木県南河内町にあった薬師寺とともに日本三戒壇の一つ。現在の金堂(阿彌陀堂)、講堂は江戸初期の再建。所蔵の仏像などにすぐれたものが多く、奈良時代の梵鐘は国宝。観音寺

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日本歴史地名大系 「観世音寺」の解説

観世音寺
かんぜおんじ

[現在地名]太宰府市観世音寺五丁目

大宰府学校だざいふがつこう院跡(国指定史跡)の東隣にある。現在は天台宗。清水山普門ふもん院と号し、本尊は聖観音。百済救援の西征中に朝倉橘広庭あさくらのたちばなのひろにわ宮で没した母斉明天皇追善のため、天智天皇が発願したとされる(「続日本紀」和銅二年二月一日条)。観音寺とも称された。朱鳥元年(六八六)に筑前・筑後両国の各一〇〇戸が施入され(新抄格勅符抄)、大宝二年(七〇二)から同四年に筑前国上座かみつあさくら把伎はき(のち杷木庄、現杷木町)志麻しま加夜かや郷蠅野林(のち船越庄、現志摩町)遠賀おか山鹿やまが林東山(のち山鹿庄)、筑後国御井みい加駄かだ(のち加駄庄)の施入を受けた(延喜五年観世音寺資財帳など)。当寺に伝わる創建当時の梵鐘(国宝)は戊戌年(文武天皇二年、六九八)鋳造の京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘で、また創建瓦(老司I式)は七世紀末から八世紀初頭のものとされることから、伽藍中枢部はこの時期に完成したとみられる。しかし寺全体の完成は遅れ、和銅二年(七〇九)二月一日に大宰府に造営促進が命じられ(「続日本紀」前掲条)、同年一〇月二〇日筑後国三原みはら生葉いくは竹野たかの三郡の熟田計一六町が施入され、同四年一〇月二五日にも筑前国那珂なか嘉麻かま穂浪ほなみ三郡の熟田計一二町三反一三六歩が施入された(前掲資財帳)。養老七年(七二三)に満誓を造筑紫観世音寺別当とし(「続日本紀」同年二月二日条、「万葉集」巻三)、天平一七年(七四五)に玄を造営に当たらせた結果(「続日本紀」同年一一月二日条)、翌一八年六月には完成し玄を落慶供養の導師としたとされる(元亨釈書)

寺域は方三町で、発掘調査や大永六年(一五二六)に写された観世音寺絵図(観世音寺蔵)によれば、南大門を入ると中門があり、中門と講堂を回廊で結び、内側には東に五重塔、西に東面する金堂を配し、講堂裏には鐘楼・経蔵・僧坊などがあった。大宰府政庁に付随する鎮護国家の寺院として「府大寺」と称され(「続日本紀」天平七年八月一二日条)、天平宝字五年(七六一)に南西隅に戒壇院が設置され西海道諸国の僧尼を統轄した(「帝王編年記」同年正月二一日条)。三綱制が布かれ、別当のほかに講師・読師が置かれた。天長八年(八三一)に西海道諸国の国分寺・定額寺への仏舎利五〇〇粒の安置が当寺講師に命じられ(「日本紀略」同年三月七日条)、承和二年(八三五)に府官と当寺講師が続命ぞくみよう院の経営を行うこととなり(「続日本後紀」同年一二月三日条)、同一一年に府官と当寺講師が当寺において西海道諸国の講師の簡試・補任を行うよう定められた(同書同年四月一〇日条)

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改訂新版 世界大百科事典 「観世音寺」の意味・わかりやすい解説

観世音寺 (かんぜおんじ)

福岡県太宰府市大字観世音寺にある寺。670年ころに天智天皇が母帝斉明天皇の冥福を祈って発願され,746年(天平18)に完成した。西海道の僧統の中心として古代九州を統轄した大宰府政庁域の東に接して創建され,〈府大寺〉と称された。761年(天平宝字5)には戒壇院が置かれ,日本三戒壇の一つとして西海道第一の地位を確固たるものとした。創建時の伽藍配置は現存する礎石,発掘調査の成果,905年(延喜5)の《観世音寺資財帳》などで知ることができる。講堂と中門を回廊で結び,その中に西に金堂,東に塔を並列させる法起寺(ほつきじ)式の伽藍配置をとるが,東を向く金堂に特徴があり,近江の崇福寺,東北の多賀城廃寺とともに観世音寺式伽藍配置として知られている。これらの建物はさらに南大門と北大門を結ぶ築地で囲まれ,その南西隅に戒壇院が設けられている。碓井・金生・大石・山北の四封,把伎(はき)・黒島・山鹿・船越の四荘をはじめとする多くの荘園・寺田を経済的基盤とし,大宰府の庇護を得て寺運は隆盛であった。しかし11,12世紀には大宰府の権力が衰退し,加えて1064年(康平7),1102年(康和4),43年(康治2)と伽藍の焼亡・倒壊が続き,寺運にかげりが生じてきた。1120年(保安1)には東大寺の末寺となり,以後自立の道を歩む。古代末~中世の観世音寺の姿はよく知られていないが,近年の発掘調査で四十九院と称される子院の実態が徐々に明らかにされており,観音霊場として相当の繁栄が推測される。その後16世紀末に寺領のほとんどを失い,1703年(元禄16)には戒壇院が離脱し,ほぼ現在の寺容にいたっている。現在は天台宗に属し,聖観世音菩薩を本尊としている。九州西国33番札所打止めとして観音信仰の対象となっている。菅原道真に〈観音寺只聴鐘声〉とうたわれた国宝銅鐘は創建時の唯一の遺品で,重要文化財に指定された馬頭観音(平安後期)などの仏像群とともに往時をしのばせている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「観世音寺」の意味・わかりやすい解説

観世音寺
かんぜおんじ

福岡県太宰府(だざいふ)市観世音寺にある天台宗の寺。清水山普門院(せいすいざんふもんいん)と号する。661年(斉明天皇7)百済(くだら)救援のために九州に滞在していた斉明(さいめい)天皇が死去したため、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智(てんじ)天皇)が母の菩提(ぼだい)を弔うために創建。造営工事は進まず、723年(養老7)に至って満誓(まんぜい)(笠麻呂(かさまろ))によって造営された。745年(天平17)、法相(ほっそう)宗の第四伝、玄昉(げんぼう)が左遷されて本寺の工事を監督し、翌746年に落慶供養(くよう)が行われている。749年(天平勝宝1)500町歩(496ヘクタール)の墾田が寄せられた。761年(または762年)同寺に戒壇が設けられ、奈良の東大寺、下野(しもつけ)(栃木県)の薬師寺の戒壇と並んで天下の三戒壇の一つをなし、西国の人の受戒の場所となった。盛時は西国第一の寺となり、七堂伽藍(がらん)を完備、49院が所属し、500町歩の寺領をもった。しかし1064年(康平7)に火災にあい、その後再建されたが、ふたたび火災にあって諸堂を焼失して衰えた。現在の講堂、金堂(阿弥陀(あみだ)堂)は1688年(元禄1)の再建になる。戒壇院は江戸時代に独立した寺となった。日本最古といわれる白鳳(はくほう)期の梵鐘(ぼんしょう)(国宝)は菅原道真(すがわらのみちざね)の詩で有名。平安時代の復興以降に造立された仏像が多く残っており、十一面観音(かんのん)像、馬頭観音像、不空羂索(ふくうけんさく)観音像の3体は5メートルにも及ぶ。そのほか毘沙門天(びしゃもんてん)像、大黒天像などがあり、木像18躯(く)、舞楽面3面、石造狛犬(こまいぬ)1対、銅製天蓋(てんがい)光心などの国の重要文化財がある。なお、905年(延喜5)の『観世音寺資財帳』(国宝、東京芸術大学蔵)は草創期の寺の規模を伝える貴重な資料である。

[田村晃祐]


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百科事典マイペディア 「観世音寺」の意味・わかりやすい解説

観世音寺【かんぜおんじ】

福岡県太宰府市にある天台宗の寺。《続日本紀》によれば,斉明天皇のために天智天皇が創建し,746年ころ完成したという。戒壇院を設け,下野(しもつけ)薬師寺,奈良東大寺とともに日本三戒壇の一つと称された。1064年諸堂が全焼したが,阿弥陀如来像ほか平安時代の仏像多数が残る。国宝の銅鐘や重要文化財の馬頭観音などがある。
→関連項目戒壇太宰府[市]東大寺文書

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「観世音寺」の意味・わかりやすい解説

観世音寺
かんぜおんじ

福岡県太宰府市にあり,都府楼跡の東に位置している天台宗の寺。天智天皇が斉明天皇の冥福を祈って創建,その完成は天平年間 (729~749) 。日本三戒壇の一つ。古い建物はまったくないが,発掘調査により,講堂に取りつく回廊に囲まれて,塔と金堂が東西に配置され,かつ金堂が東面するというかつての伽藍配置が明らかにされた。奈良時代の梵鐘 (国宝) ,平安・鎌倉時代の多くの仏像がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「観世音寺」の解説

観世音寺
かんぜおんじ

福岡県太宰府市にある天台宗の寺
天智天皇の勅願に基づき創建され,746年に完成。761年には戒壇院がつくられた。東大寺・下野 (しもつけ) 薬師寺と並ぶ「天下の三戒壇」の一つで,正式な僧となるにはこれらの三寺のいずれかで受戒しなければならなかった。

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デジタル大辞泉プラス 「観世音寺」の解説

観世音寺

福岡県太宰府市にある寺院。天台宗。山号は清水山、院号は普門院。天智天皇の発願に基づき、746年に開創。本尊は聖観世音菩薩。白鳳時代の梵鐘は国宝に指定。

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事典・日本の観光資源 「観世音寺」の解説

観世音寺(第23番)

(茨城県笠間市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の観世音寺の言及

【戒壇】より

…日本では,754年(天平勝宝6)4月に東大寺大仏殿前に,唐僧鑑真一行によって,仮設の戒壇が造築され,聖武上皇・光明皇太后など400余人が登壇受戒したのが初例で,翌年10月に大仏殿の西方に常設の戒壇を中心とする院が設けられた。761年(天平宝字5)に下野国の薬師寺と筑前国の観世音寺に戒壇が創建され,〈天下の三戒壇〉といわれた。平安時代に至って,最澄は比叡山延暦寺に大乗戒壇の建立を企て,僧綱との間に論争が展開され,没後7日の822年(弘仁13)6月に勅許された。…

【律宗】より

…【礪波 護】
[日本]
 日本では律宗は八宗および南都六宗の一つで,12年の歳月と6回の渡航によって754年(天平勝宝6)に来日した伝戒師鑑真の一行によって伝えられた。そして755年9月に東大寺に戒壇院,761年(天平宝字5)1月に下野薬師寺,筑紫観世音寺に戒壇院が創建されて〈天下三戒壇〉の制が設けられ,官僧受戒の場とした。一方,鑑真は唐招提寺を創立して僧尼の規範である律宗の指導流布につとめ,政府はまた諸大寺に戒師団を施入して戒律の研究,普及などをはかった。…

※「観世音寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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