中国、唐・五代に設置された地方軍司令官、とくに後半期には半独立政権を形成したものが多く、藩(はん)、藩鎮(はんちん)、方鎮と通称される。7世紀後半から北方民族の侵攻に対応して辺境防備のため募兵制の大軍団が常屯(じょうとん)する軍鎮が置かれ、府兵制の鎮戍(ちんじゅ)にかわってしだいに増加したが、それらを統括する現地最高司令官として諸軍を節度(指揮命令)する官職として節度使が任命された。710年西北辺境に置いたのに始まり、玄宗朝に全辺境にわたって10節度使が任命された。最初は数州の軍事をつかさどったが、軍糧補給・調達のため、財政、民政の諸使職(支度(したく)、営田、鋳銭、海・陸運等使、観察処置使)を兼任して権力強大となり、居城(会府)の州長官(刺史(しし))をも兼任して軍・民・財三権を握る独立軍閥に成長した。755年平盧(へいろ)、范陽(はんよう)、河東の3節度使を兼ねた巨大藩鎮安禄山(あんろくざん)が反し、この乱を契機に内地にも防禦(ぼうぎょ)使、団練使などが列置され、それらを統(す)べる都団練、都防禦使が藩鎮の列に加わった。やがて名称は節度使に統一されたが、おのおの軍号を与えられ、会府の民政長官刺史と数州の監察権をもつ観察使を兼ね、その管轄区域である道(藩)の長官として牙(衙)(が)軍とよばれる親衛軍を中核に幕府を開き、腹心の軍将と幕職官でこれを固め、鎮将に率いられる外鎮軍を藩内要地に配置した。
養兵財源は賦税の一部を藩費にあてるのを認められた(留使)ほか、御用商人を使った邸店経営など商業利貸資本の運営によるところが大きく、私兵を養った。強藩はその地位を世襲し、中央への戸口申報、賦税上供を怠り、不法手段で軍拡に努め、しばしば反抗を企て、中央はその統制に苦しんだが、憲宗(在位805~820)時代に権限を削減して一時権威を回復した。しかし世襲職業軍人集団と化した藩軍がついに自ら彼らの代表者を節度使に擁立し始め、唐朝の統一は崩壊した。五代十国の君主はいずれも有力節度使から即位し、下剋上(げこくじょう)の武人政治時代とされるが、他方、乱立した節度使はしだいに細分化、小規模化し、宋(そう)に至ってその権限、機構は解体され、単なる軍人の名誉的称号と化し、幕府は幕職州県官として地方官に吸収された。
[菊池英夫]
日本では732年(天平4)、新羅(しらぎ)との関係の緊張に対処し、東海東山・山陰・西海各道の3節度使にそれぞれ藤原房前(ふささき)、多治比県守(たじひのあがたもり)、藤原宇合(うまかい)を任じ、兵備の強化、兵士の訓練などのことにあたらせた。734年廃止されたが、761年(天平宝字5)、藤原仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))の新羅征討計画に関連して東海、南海、西海道の3節度使を設置。しかし同計画の挫折(ざせつ)により764年廃止された。
[笹山晴生]
『「支那中世の軍閥」(『日野開三郎東洋史学論集 第1巻』所収・1980・三一書房)』▽『「五代史概説」(『日野開三郎東洋史学論集 第2巻』所収・1980・三一書房)』
唐,五代の軍職。唐の府兵制の崩壊,羈縻(きび)体制の破綻で,傭兵からなる辺境防衛軍団の総司令官として出現した。いわゆる〈令外の官(使職)〉の代表的なものである。節度は軍隊の指揮を意味する。710年(景雲1)以後,10節度使が設けられた。安史の乱で国内要衝にも置かれるようになり,多くは観察使を兼ねて民政権をも掌握し,地方軍閥と化した。9世紀の憲宗期に中央統制が一時回復されるが,以後再び自立化を強め,唐末には40~50,五代には30~40の節度使が存在した。
→藩鎮
執筆者:愛宕 元
奈良時代に,中国唐代の制にならって設置された官職。732年(天平4)藤原房前,多治比県守,藤原宇合をそれぞれ東海東山,山陰,西海諸道の節度使に任じ,判官,主典,医師等の官人を置いた。その任務は,軍団の武具の整備,兵士の徴発,兵船の建造等であり,おそらく当時の対新羅関係の緊張に対処し,武備を強化することを目的としたと考えられる。《正倉院文書》中の天平6年出雲国計会帳によって,備辺式を定め,烽(とぶひ)を置き,弩(機械仕掛けの大弓)の製造を教習させ,歩兵・騎兵の教練を行うなどの,山陰道節度使の活動の実際が知られる。734年廃止されたが,761年(天平宝字5),唐における安史の乱を契機とした,藤原仲麻呂(恵美押勝)による新羅征討計画と関連して再置され,東海・南海・西海3道節度使が置かれて,兵士・兵船・水手等の徴発,陣法の訓練,武器の製造等にあたった。764年廃止。
執筆者:笹山 晴生
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唐,五代の軍職。府兵制の崩壊後に辺境の傭兵集団の総司令官として置かれた。710年の河西節度使設置に始まり,開元,天宝の頃に10節度使があった。安史の乱中より国内各地にも置かれ,民政も掌握し,藩鎮(はんちん)と呼ばれて,その数は唐代で40~50,五代で30~40に及んだ。節度使は数州を領し,治所に牙軍(がぐん)と呼ばれる親軍や私兵を持ち,管内要地に外鎮軍を置いた。牙軍は待遇をめぐってよく反乱を起こし節度使を廃立したので,その支配は必ずしも安定していなかった。強大な藩鎮は中央に対しても反乱を起こしたが,特に安史の乱の後に内地の要所に置いた河北三鎮はほとんど自立状態を続けた。黄巣(こうそう)の乱後は各地の節度使が完全に自立し,実権は兵士,土豪らに握られた。そのなかから五代の王朝が出るが,宋の統一で兵力を奪われ実権を失った。
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奈良時代に2度にわたっておかれた軍政官。第1次は732~734年(天平4~6)の間,東海・東山道,山陰道,西海道の3節度使が任命され,東アジアの緊張状態のなか,新羅(しらぎ)の日本進攻に備えて,対外防衛・軍事力整備の諸施策にあたった。第2次は761年(天平宝字5)に東海道(東山道の国も所管),南海道(山陽道の国も所管),西海道の3節度使が任命され,今度は新羅遠征を目的として,兵力の検定と訓練,兵器の製造にあたったが,数年のうちに順次停止された。いずれも実戦には至らなかったが,実戦の際にはそのまま指揮官となることが予定されていたと考えられる。
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…唐が建国以来実行した周辺民族に対する羈縻(きび)政策は高宗朝(650‐683)ころから破綻に向かい,辺境では胡・漢の傭兵による常備軍が強化された。これを掌握する節度使は唐朝の中央集権支配から逸脱する傾向があり,安史の乱の根本原因もそこにあった。西域人(ソグド)と突厥(とつくつ)の混血である安禄山は平盧軍の部将から昇進して平盧(遼寧)・范陽(河北)・河東(山西)の3節度使を兼ねる大勢力となった。…
… 武韋時期を経過した時点で,隋以来の律令体制の破綻は,もはや誰の目にも明らかとなっていた。例えば,兵農一致の原則に立つ,西魏以来の府兵制は崩れ,傭兵による募兵制が採用され,その軍団の最高司令官として,膨大な兵力を左右できる節度使が設けられた。節度使の起源は,シルクロードの安全を確保するために涼州におかれた710年(景竜4)の河西節度使に始まり,742年(天宝1)には辺境にいわゆる十節度使が設けられるまでになった。…
…そして都護府の軍事力を支えた鎮戍制に代わって,募兵による軍・鎮と呼ばれる常駐部隊が配備されるようになる。これら軍・鎮を統括する総司令官として,新たに設けられたのが節度使である。都護府は名目的にその後もしばらく残りはするが,実質的には節度使がその任務遂行の主役となる。…
…軍中の大旗をまた纛といい,古くは天子は六纛をたてた。唐代の節度使は,皇帝の意志を体現する使者に授けられる杖に旄のついた節とともに六纛をたてて任地におもむいた。狼頭を刺繡した狼頭纛は突厥(とつくつ)の旗として知られる。…
…唐中期の律令支配崩壊の過程で,多様化する社会に対処するため,唐朝は各種の〈使職〉(いわゆる〈令外の官〉)と総称されるポストを続々と新設した。その代表が節度使である。節度使は属地の羈縻(きび)支配の破綻や府兵制の崩壊により,長城線沿いに新設された傭兵からなる国境防衛軍団の司令官であるが,安史の乱勃発を機に国内要衝にも置かれるようになった。…
※「節度使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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