市宿町
いちじゆくまち
城下惣構内の西部に位置し、加倉口を経て東進する日光御成道の両側に発達した町。東は久保宿町に続き、南側に並行して新町がある。当町東端と新町東端を結んで南北方向に横町が延びる。北側の惣構外は西原地(大岡氏時代の岩槻城惣絵図)。町名は永禄三年(一五六〇)に市立てが免許され、以来市が立てられたことに由来すると伝え、町は上宿・中宿・下宿に分れていた(元文五年「岩槻宿古事新来之覚書」勝田家文書・「風土記稿」)。市は徳川幕府の時代に入っても保護・育成され、慶長六年(一六〇一)一一月一日、岩槻城主高力清長は「上宿市日ニ、下宿ニ諸売物并自他所来る人馬留置候儀堅可令停止事」「ふともの・ゆたん、上宿まつとうまへにて可致売買事」など三ヵ条からなる掟書(勝田家文書)を「岩付市宿肝煎中」に出している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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