岩槻城下(読み)いわつきじようか

日本歴史地名大系 「岩槻城下」の解説

岩槻城下
いわつきじようか

岩槻城の城下町。城は岩槻台地の舌状台地上に築かれ、北から東を元荒川が囲繞、その内側には帯曲輪があり、南西方向を除いて沼(堀)に囲まれていた。南西方向は岩槻台地に連続し、武家屋敷地縄張りされ、町人町はその外側の南西から西側にかけてと南東側に配置されている。寺院は町人町の外縁、大構(惣構)の要所要所に配置されている。城下地域の大部分は大構内にあるが、足軽など下級家臣の屋敷地や町人町の一部は構外にあった。なお岩槻は中世には岩付と記され、永徳二年(一三八二)四月二〇日の長谷河親資軍忠状(江田文書)に「岩付御陣」とみえる。親資は前々年以来、武蔵北部の諸所で小山義政と闘い、岩付での合戦では敵を追落している。その後一五世紀の半ば頃に扇谷上杉氏家臣太田氏によって江戸時代の岩槻城につながる岩付城が築かれた。

〔岩付城の時代〕

初期にはどの程度城下町が発達していたかは不明だが、永禄―天正期(一五五八―九二)には相当に都市化していたとみられる。文明一八年(一四八六)に聖護院道興が下総から武蔵に入り、「岩つきといへる所を過るに、富士のねにハ雪いとふかく、外山にハ残紅葉色々にみえけれハ」と記すが、城や城下については触れていない。下って天文七年(一五三八)初頭北条氏綱は葛西かさい(現東京都葛飾区)を攻略、次いで岩付城に向かい、近辺に放火している(「快元僧都記」水戸彰考館蔵)

江戸時代城下市宿いちじゆく町に住し、同町の六斎市を差配していた勝田家に伝わる永禄三年の太田氏資判物写によると、氏資は岩付領における連雀商の公事および棟別銭を勝田佐渡守に免許している。「証文明鏡之上」とあるので、これ以前から特権を与えていたのであろう(ただしこの時期は氏資の父資正が城主であり、この判物は検討を要する)。同一〇年の氏資戦死後は、城は北条氏の直轄支配下に置かれ、同一三年から天正二年(一五七四)まで北条氏繁が城代となった。氏繁も前例に倣い勝田佐渡守の公事・棟別銭を免許するが、この年月日未詳の判物写(勝田家文書)には「於当町」とあり、免許の対象が岩付町ないしは市宿町であることが強調されている。その後事情は分明でないが、勝田佐渡守など城下商人の特権が脅かされる事態が生じたらしく、佐渡守は「わひ事」を申上げ、「かち田一人」は「別而岩付御在城之内より走廻候故」に、特別の配慮で一代限りという条件付きながら公事を免許された(年月日未詳「某判物写」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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