日本歴史地名大系 「帆足万里墓」の解説 帆足万里墓ほあしばんりのはか 大分県:速見郡日出町日出城下帆足万里墓[現在地名]日出町日出 堀佐尾堀佐尾(ほりさお)地区の寺(てら)山にあり、県指定史跡。帆足万里は三浦梅園、脇蘭室と継承された豊後学の最高峰の一人である。安永七年(一七七八)一月に日出城三の丸に生れた。父の帆足通文は日出藩の家老職であった。一四歳で脇蘭室の門に入る。その後中井竹山・皆川淇園・亀井南溟・村瀬栲亭らに教えを受けた。諱は万里、字は鵬卿、通称は里吉、号は愚亭といった。享和三年(一八〇三)城下中(なか)ノ丁に塾を開き、文化七年(一八一〇)までここに居し、以後天保三年(一八三二)までは三の丸で開塾した。同四年日出藩主一三代俊敦の懇請により家老として藩政改革に当たった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by