日本大百科全書(ニッポニカ) 「日出藩」の意味・わかりやすい解説
日出藩
ひじはん
豊後(ぶんご)国(大分県)速見(はやみ)郡地方を領有した藩。外様(とざま)。1601年(慶長6)播磨(はりま)国から木下延俊(のぶとし)が3万石を得て入部。日出城(日出町)を築いて居城とした。以後明治まで、俊治、俊長、俊量(としかず)、俊在(としあり)、長保(ながやす)、長監(ながてる)、俊能(としよし)、俊泰(としやす)、俊胤(としたね)、俊懋(としまさ)、俊良(としあき)、俊敦(としあつ)、俊方(としかた)、俊程(としのり)、俊愿(としまさ)と16代270年間にわたって領有。1642年(寛永19)延俊の死後、俊治は弟延由(のぶよし)(延次(のぶつぐ))に立石(たていし)(杵築(きつき)市)5000石を分知、以後本藩は2万5000石となる。藩では、領内を山里、里目に二分して支配を行った。また、城下である日出湊(みなと)は中世以来の良港で、海上交通の要所であり、問屋をはじめ諸商人が集住していた。日出藩の学問は、理学者帆足万里(ほあしばんり)を中心に大きく盛り上がった。万里は1832年(天保3)に家老となり、藩政改革にも取り組んでいる。特産品は、鶴成(つるなり)金山(杵築市)の金、17世紀中ごろ導入の七島藺(しちとうい)や、将軍献上の麻地酒(あさじざけ)などが著名。1871年(明治4)廃藩置県により日出県成立、同年さらに大分県に編入された。
[豊田寛三]