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皆川淇園 みながわ きえん

美術人名辞典の解説

皆川淇園

江戸後期儒者。京都生。父春洞は一説に東福門院御典医と言われる。名は愿、字は伯恭、別号に有斐斎・有斐斎等。開物学と称する独自の説を樹立し、私塾弘道館を開き多くの門人を擁す。画は初め望月玉蟾に学び、のち円山応挙呉春岸駒・長沢蘆雪らと交わる。文化4年(1807)歿、74才。

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デジタル大辞泉の解説

みながわ‐きえん〔みながはキヱン〕【皆川淇園】

[1734~1807]江戸中期の儒学者。京都の人。名は愿(げん)。字(あざな)は伯恭。漢字の字義易学を研究し、開物学を提唱。また、漢詩文書画をよくした。晩年、私塾弘道館をおこした。著「名」「学開物」「易原」など。

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百科事典マイペディアの解説

皆川淇園【みながわきえん】

江戸中期の儒学思想家。名は愿(げん),字は伯恭(はくきょう)。京都の人。(えき)を単に卜筮(ぼくぜい)の具とせず,真の学問とした。漢字の字義,物の名や意味を易に基づくと解し(開物学),家塾弘道館を建て,広くその説を教授した。
→関連項目大田錦城清田【たん】叟富士谷成章

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

皆川淇園 みながわ-きえん

1735*-1807 江戸時代中期-後期の儒者。
享保(きょうほう)19年12月8日生まれ。「易経」をもとに字義,音声,文脈の関連を研究する「開物(かいぶつ)学」を独創し,門人に教授。晩年に私学弘道館をひらく。詩文,書画にもすぐれた。弟に富士谷成章(なりあきら)。子に皆川篁斎(こうさい)。文化4年5月16日死去。74歳。京都出身。名は愿(げん)。字(あざな)は伯恭。通称は文蔵。別号に有斐斎など。著作に「名疇(めいちゅう)」「淇園詩話」など。
【格言など】心を用ゆるの難は,力を用ゆるに倍す(「問学挙要」)

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世界大百科事典 第2版の解説

みながわきえん【皆川淇園】

1734‐1807(享保19‐文化4)
江戸中期の儒者。名は愿,字は伯恭,通称は文蔵。淇園のほか斎,呑海子などとも号した。京都の人。易の開物思想に基づく独自の哲学的思索がその著《名疇》(1784)などにみられ,音韻や字義に関するユニークな著作も多い。また書画をよくした。通常の儒者の枠をこえる思想家であった。著書は《易学開物》《易学階梯》《易原》のほか《大学繹解》《老子繹解》《実字解》《習文録》など多数。【衣笠 安喜】

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大辞林 第三版の解説

みながわきえん【皆川淇園】

1734~1807) 江戸中・後期の儒学者。京都の人。名は愿、字あざなは伯恭。富士谷成章なりあきらの兄。従来の経学にあきたらず、字義を音韻によって究め、「名」によって「物」をみようとする「開物学」を唱えた。また、書画・詩をよくした。著「問学挙要」「名疇」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

皆川淇園
みながわきえん

[生]享保19(1734).12.8. 京都
[没]文化4(1807).5.16. 京都
江戸時代中期~後期の易学者。名,愿。通称,文蔵。字,伯恭。別号,有斐斎,呑海子など。幼時から父の成慶に儒学を習い,諸経に通じ,岩垣竜渓,佐野山陰,村瀬栲亭とともに古学四大家と称された。特に学の研究者として有名で,公家,諸侯など教えを請う者 3000人に及び,文化2 (1805) 年弘道館を設立。かたわら,詩,書,画をもよくし,絵は円山応挙に師事して山水,人物,花鳥にすぐれ,京坂地方の画家の養成に尽し,門下から木村蒹葭堂らが出た。主著『名疇』 (1784) ,『易学階梯』『欧蘇文弾』『易原』『荘子繹解』『老子繹解』『淇園文集』『淇園詩集』など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

皆川淇園
みながわきえん
(1735―1807)

江戸後期の儒者。名は愿(げん)、字(あざな)は伯恭(はくきょう)。淇園、(きょうさい)、有斐斎(ゆうひさい)と号し、通称文蔵。享保(きょうほう)19年12月8日京都生まれ。国学者富士谷成章(ふじたになりあきら)は実弟。幼少より英才教育を受け、一流の儒者に就いて学んだが、10代のころから漢字の字義と易学に関心をもち、安永(あんえい)・天明(てんめい)年間(1772~1788)にそれらを総合して開物(かいぶつ)学を提唱した。開物とは、字義を音声によって把握し、「名」によって「物」がみえてくるようにすることである。この方法で儒学用語を定義し直して『名疇(めいちゅう)』(天明4年序)を著した。1759年(宝暦9)より京都・中立売(なかだちうり)室町西入町で儒学を講じて多くの儒者を養成した。その「受業門人帳」には公卿(くげ)から庶民まで門弟千数百人を数え、平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)も門人であった。一方、著述にも努め、『淇園詩話』(1771)『問学挙要』(1774)『易学開物』『助字詳解』(1813)、諸経書の『繹解(えきかい)』など多数がある。学者や画家などとの交友も広く、風雅に遊んで詩書画をよくする文人でもあった。1805年(文化2)京都に弘道館を建てたが、2年後の文化(ぶんか)4年5月16日、74歳で没した。[高橋博巳]
『『日本思想大系 47 近世後期儒家集』(1972・岩波書店) ▽『漢語文典叢書 4 虚字詳解』(1980・汲古書院) ▽国金海二解説『助字詳解』(勉誠社・勉誠社文庫)』

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367日誕生日大事典の解説

皆川淇園 (みながわきえん)

生年月日:1734年12月8日
江戸時代中期;後期の儒学者
1807年没

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世界大百科事典内の皆川淇園の言及

【開物思想】より

…その内容は当時行われていた中国の重要産業を網羅し,それらについて知識人向けの解説を行ったものである。 朝鮮でも李朝時代に〈実事求是〉をスローガンとする実学派があったが,こうした大陸からの影響もあって,日本でも17世紀には熊沢蕃山が儒学を単なる名分論ではなく,利用厚生論として発展させ,18世紀には富永仲基や大坂の懐徳堂派の学風が町人的実学を進め,さらに皆川淇園,林子平,工藤平助,本多利明,佐藤信淵などの開物思想家が輩出した。それは信淵によれば,〈国土を経営し,物産を開発し,境内を豊饒にし,人民を蕃息せしめる業〉という国土開発・産業開発の事業を展開させようとする考え方であった。…

※「皆川淇園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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