江戸中期の儒学者。享保(きょうほう)15年大坂に生まれる。通称は善太。名は積善。字(あざな)は子慶(しけい)。父は懐徳堂(かいとくどう)の2代学主中井甃庵(しゅうあん)(1693―1758)。弟は履軒(りけん)。五井蘭洲(ごいらんしゅう)に師事し、程朱(ていしゅ)学を主とする道学を学ぶが、三宅石庵(みやけせきあん)(1665―1730)や父甃庵の兼学性も受け継いだ。1782年(天明2)懐徳堂の4代学主となり、懐徳堂の最盛期を築く。
1784年、荻生徂徠(おぎゅうそらい)を批判した『非論語徴(ひろんごちょう)』を著し、1788年の大老松平定信京坂巡視のおりには経義の講義をし、定信の諮問(しもん)に答えて1791年(寛政3)、近世の代表的な経世論『草茅危言(そうぼうきげん)』を著した。一方、1792年の大火で全焼した懐徳堂の復興に奔走し、4年後に再建した。1799年(寛政11)には、幕府の命により徳川家康一代の記『逸史(いっし)』を献納した。享和(きょうわ)4年2月5日75歳で死去。
[上田 穣 2016年6月20日]
(水田紀久)
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江戸中期の大坂の儒学者。名は積善,字は子慶,通称は善太。竹山,同関子,渫翁(せつおう),雪翁と号した。曾祖父は播州竜野脇坂氏に仕えたが,父甃庵(しゆうあん)は来坂,三宅石庵(万年)の後を受け懐徳堂の2代学主となった。竹山は弟履軒とともに父および五井蘭洲に導かれ,懐徳堂4代学主として堂風を振興した。朱子学を標榜したが柔軟な学風で,経世的識見に富み,かねて詩文をよくし,片山北海の主宰する詩文の結社混沌社の連中とも親交を結んだ。著書は荻生徂徠の《論語徴》を批判した《非徴》(1767成立,1784刊)のほか,老中松平定信に献じた経世論《草茅危言(そうぼうきげん)》(1789序),徳川家康の一代記《逸史》(1799刊),近体詩の声律を平仄(ひようそく)の配列から研究した漢詩作法書《詩律兆》(1758序,1776刊),詩文集《奠陰集》(淀川の南の意,各体の作品を網羅)や紀行文《東西遊記》など各分野に及ぶ。
執筆者:水田 紀久
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1730.5.15~1804.2.5
江戸後期の儒者。父は中井甃庵(しゅうあん)。名は積善,字は子慶,通称善太。大坂生れ。大坂の懐徳堂第4代学主として学校経営に力を注ぎ,弟履軒(りけん)とともに懐徳堂の黄金期を形成。詩文に優れ,混沌社同人らとも広く交流した。また松平定信の諮問に答えて,幕政の改革案をのべた「草茅危言(そうぼうきげん)」を献上するなど,たんなる町人学校にとどまらぬ官許学問所としての公的な使命を追求した。師の五井蘭洲(ごいらんしゅう)の遺稿「非物篇」を刊行し,自身も徂徠学批判の書「非徴」を著した。
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…自由な学風で,程朱の学を本としたが,陸王の書なども講じ,町人にふさわしい教育に重きを置いた。学主(教授)は石庵から甃庵,三宅春楼,中井竹山,中井履軒,中井碩果,並河寒泉と継ぎ,1869年(明治2)廃校。竹山の時代(18世紀末ごろ)は全盛で,懐徳堂の名は天下に高かった。…
…江戸中期,大坂の儒者中井竹山の著。5巻。…
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