朝日日本歴史人物事典 「常高院」の解説
常高院
生年:生年不詳
安土桃山・江戸時代初期の武家の女性。名は初,諱は藤子。浅井長政とお市の方の次女。京極高次の妻。姉に淀殿,妹に崇源院(江)がいる。天正1(1573)年,織田信長の攻撃により浅井氏が滅んだとき,お市の方と3人の娘は無事信長方に引き取られ,10年後,お市の方の柴田勝家への再嫁に伴い,姉妹と共に越前北ノ荘(福井市)に移った。翌年,柴田氏が滅ぼされお市の方もこれに殉じると,娘3人は豊臣秀吉のもとに引き取られた。のち従兄に当たる高次に嫁し,文禄2(1593)年忠高を生む。慶長3(1598)年,近江蒲生郡のうちに2040石余を秀吉から与えられている。徳川家康の命により妹江の娘(興安院)を養女とし,のち子忠高の妻とした。同14年に夫高次が没すると剃髪して常高院と号した。元和1(1615)年の大坂夏の陣に際しては淀殿と家康の交渉の仲立ちとなって駿府に入るなどしたが,結果は実りのないものとなった。今出川(菊亭)宣季の妻(高次の養女)に300石を与え,若狭常高寺にも300石を寄付している。女性領主として,また近親間の融和を計る役割を果たした女性として注目される。
(田端泰子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報