常高院(読み)じょうこういん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「常高院」の意味・わかりやすい解説

常高院
じょうこういん
?―1633

江戸初期の大名夫人。名は初(または発とも)。近江小谷(おだに)城主浅井長政(あさいながまさ)と織田信長の妹お市の方(小谷の方)の間に生れた三姉妹の一人。姉は淀殿(よどどの)、妹はお江(ごう)の方(徳川秀忠室崇源院(すうげんいん))。初は近江大津城主(のち若狭(わかさ)小浜(おばま)城主)京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁した。1598年(慶長3)8月豊臣秀吉から近江蒲生(がもう)郡のうち2045石を与えられた。1609年高次死後、常高院と号した。1614年の大坂冬の陣で、高次の嫡子忠高は徳川軍にあったが、常高院は豊臣方の代表として徳川方の阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦を成立させた。1633年(寛永10)8月に没し若狭常高寺(福井県小浜市)に葬られた。

[内田九州男]

『豊臣秀吉朱印状(京極家文書)』『「寛政重修諸家譜 巻第419」(『新訂 寛政重修諸家譜 第7』1965・続群書類聚刊行会)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常高院」の解説

常高院 じょうこういん

?-1633 織豊-江戸時代前期,浅井長政の次女
母は小谷(おだに)(お市)の方。豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)の妹。徳川秀忠の正室崇源院(すうげんいん)の姉。父長政,義父柴田勝家の死後,秀吉にひきとられ,京極高次にとつぐ。大坂の陣では,徳川・豊臣間の講和使者をつとめた。寛永10年8月27日死去。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は初。

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世界大百科事典(旧版)内の常高院の言及

【小谷方】より

…1583年4月24日,羽柴(豊臣)秀吉に攻められ,越前北ノ庄にて勝家とともに自害した。3女は逃れて,のちに長女は秀吉の側室淀君,次女は京極高次室常高院,三女は徳川秀忠室崇源院となる。【久留島 典子】。…

※「常高院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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