常高院(読み)じょうこういん

朝日日本歴史人物事典 「常高院」の解説

常高院

没年:寛永10(1633)
生年:生年不詳
安土桃山・江戸時代初期の武家の女性。名は初,諱は藤子。浅井長政とお市の方の次女京極高次の妻。姉に淀殿,妹に崇源院(江)がいる。天正1(1573)年,織田信長の攻撃により浅井氏が滅んだとき,お市の方と3人の娘は無事信長方に引き取られ,10年後,お市の方の柴田勝家への再嫁に伴い,姉妹と共に越前北ノ荘(福井市)に移った。翌年,柴田氏が滅ぼされお市の方もこれに殉じると,娘3人は豊臣秀吉のもとに引き取られた。のち従兄に当たる高次に嫁し,文禄2(1593)年忠高を生む。慶長3(1598)年,近江蒲生郡のうちに2040石余を秀吉から与えられている。徳川家康の命により妹江の娘(興安院)を養女とし,のち子忠高の妻とした。同14年に夫高次が没すると剃髪して常高院と号した。元和1(1615)年の大坂夏の陣に際しては淀殿と家康の交渉の仲立ちとなって駿府に入るなどしたが,結果は実りのないものとなった。今出川(菊亭)宣季の妻(高次の養女)に300石を与え,若狭常高寺にも300石を寄付している。女性領主として,また近親間の融和を計る役割を果たした女性として注目される。

(田端泰子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「常高院」の意味・わかりやすい解説

常高院
じょうこういん
?―1633

江戸初期の大名夫人。名は初(または発とも)。近江小谷(おだに)城主浅井長政(あさいながまさ)と織田信長の妹お市の方(小谷の方)の間に生れた三姉妹の一人。姉は淀殿(よどどの)、妹はお江(ごう)の方(徳川秀忠室崇源院(すうげんいん))。初は近江大津城主(のち若狭(わかさ)小浜(おばま)城主)京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁した。1598年(慶長3)8月豊臣秀吉から近江蒲生(がもう)郡のうち2045石を与えられた。1609年高次の死後、常高院と号した。1614年の大坂冬の陣で、高次の嫡子忠高は徳川軍にあったが、常高院は豊臣方の代表として徳川方の阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦を成立させた。1633年(寛永10)8月に没し若狭常高寺(福井県小浜市)に葬られた。

[内田九州男]

『豊臣秀吉朱印状(京極家文書)』『「寛政重修諸家譜 巻第419」(『新訂 寛政重修諸家譜 第7』1965・続群書類聚刊行会)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常高院」の解説

常高院 じょうこういん

?-1633 織豊-江戸時代前期,浅井長政の次女。
母は小谷(おだに)(お市)の方。豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)の妹。徳川秀忠の正室崇源院(すうげんいん)の姉。父長政,義父柴田勝家の死後,秀吉にひきとられ,京極高次にとつぐ。大坂の陣では,徳川・豊臣間の講和使者をつとめた。寛永10年8月27日死去。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は初。

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世界大百科事典(旧版)内の常高院の言及

【小谷方】より

…1583年4月24日,羽柴(豊臣)秀吉に攻められ,越前北ノ庄にて勝家とともに自害した。3女は逃れて,のちに長女は秀吉の側室淀君,次女は京極高次室常高院,三女は徳川秀忠室崇源院となる。【久留島 典子】。…

※「常高院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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