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浅井長政 あさいながまさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

浅井長政
あさいながまさ

[生]天文14(1545)
[没]天正1(1573).8.9. 近江,小谷
戦国大名。久政の子。幼名は猿夜叉,のち新九郎,備前守と称した。浅井父祖2代の近江北半の経営を受継ぎ,初め六角氏のために勢力の伸長ができなかったが,永禄6 (1563) 年織田信長の妹お市 (→小谷の方 ) をめとって勢力を拡張していった。同 11年信長とともに観音寺城を陥れて,六角義賢父子を追い,さらに朽木元綱を従え,近江の大半を領した。その後信長が天下統一を志向するに及び,長政は朝倉義景,六角承禎,本願寺と連合して信長にそむき,その打倒をはかったが,元亀2 (71) 年には比叡山が焼打ちにあい,天正1 (73) 年には朝倉義景が滅ぼされ,ついには居城小谷を信長に攻撃され落城,自殺した。なお長政の3人の娘は,のちにそれぞれ豊臣秀吉の側室 (淀君) ,京極高次徳川秀忠の夫人となった。

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百科事典マイペディアの解説

浅井長政【あさいながまさ】

北近江の戦国大名。久政の子。初め織田信長の妹お市の方をめとり,信長と結んで六角氏を圧倒したが,のち朝倉義景(よしかげ)らと結んで信長に対抗。1570年信長の軍に姉川の戦で敗れ,のち自殺。
→関連項目浅井氏小谷城湖北[町]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

浅井長政 あさい-ながまさ

1545-1573 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)14年生まれ。浅井久政(ひさまさ)の子。淀殿(よどどの)の父。近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城主。六角氏をやぶり,近江の大半を領した。織田信長の妹お市の方を妻とし信長とむすんだが,のち長年同盟関係にあった朝倉義景を支援し,元亀(げんき)元年織田・徳川軍と姉川でたたかって敗れる。天正(てんしょう)元年信長に小谷城を攻められ,8月28日自害した。29歳。初名は賢政。通称は新九郎

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朝日日本歴史人物事典の解説

浅井長政

没年:天正1.8.28(1573.9.24)
生年:天文14(1545)
北近江(滋賀県)の戦国大名。久政の子。通称新九郎。備前守。南近江の大名六角義賢の諱の1字を受けて賢政と名乗り,永禄2(1559)年義賢の家臣平井定武の娘と結婚させられたが,すぐに離縁。翌年野良田(彦根市)の合戦で六角軍を破ると,重臣らの支持を得て父に代わってその家督を継いだ。同4年,賢政の名を捨て長政と改名することで六角氏との対決姿勢を強める。以後積極的に南近江に侵攻し,六角氏の内紛もあってその版図を愛智郡(滋賀県)あたりにまで広げた。 永禄10年,織田信長が美濃(岐阜県)を平定するとその妹お市(小谷の方)と結婚して同盟関係を結ぶが,元亀1(1570)年4月,信長が越前(福井県)の朝倉義景を討つため敦賀まで進むと,突然離反して兵を挙げた。信長はあやうく危地を脱し,同年6月徳川家康と共に近江に侵攻した。長政は朝倉氏の支援を得て,姉川をはさんでこれと戦うが敗北(姉川の戦)。9月には本願寺を攻める信長軍の背後を突くべく朝倉氏と共に坂本(大津市)に出兵した。12月,将軍足利義昭の仲介でいったんは和睦するが,以後江北10カ寺を中心とする一向一揆勢力と連携しながら,横山城(長浜市)の木下秀吉ら信長勢と対峙した。同3年7月,信長が本拠小谷城(湖北町)に迫ると朝倉氏の来援を得て戦ったが,それに呼応して西進していた武田信玄の到着を待たずに突然朝倉軍が帰国してしまい,勝機を逸した。翌年信長は将軍義昭を追放し,8月には小谷城に出兵,まずは救援に駆けつけた朝倉氏を越前に追撃してこれを滅ぼし,ただちに兵を近江に返した。孤立無援となった小谷城で,長政は父に続いて自害し,首は京都で獄門に懸けられた。墓は徳勝寺(長浜市)にある。妻お市と3人の娘は助け出され,お市の方はのち柴田勝家と再婚,長女茶々は秀吉の側室淀君となり,次女初,3女小督はそれぞれ,京極高次,徳川秀忠の妻となっている。<参考文献>小和田哲男『近江浅井氏』

(河村昭一)

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世界大百科事典 第2版の解説

あさいながまさ【浅井長政】

1545‐73(天文14‐天正1)
北近江の戦国大名。久政の子。はじめ六角義賢(承禎)の偏諱(へんき)を得て新九郎賢政と称し,1560年(永禄3)家督を継いだ。翌年,賢政を捨てて備前守長政と改名。長政のころ,浅井氏は守護京極氏を完全に圧倒し,六角氏との同盟関係も清算し独立した戦国大名としての地位を確立し,最盛期を迎えた。1560年の野良田合戦で浅井氏は初めて六角氏を破り,以後,しきりに南進を策し,信長の妹お市(小谷方(おだにのかた))をめとり友好関係にあった織田氏とともに68年観音寺城を陥落させて六角義賢父子を走らせ,ついで高島郡の朽木(くつき)氏を服属させて江北の領有を確立した。

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大辞林 第三版の解説

あさいながまさ【浅井長政】

1545~1573) 戦国時代の武将。近江国小谷城主。織田信長の妹お市をめとり勢力を増したが、のち朝倉義景と結んで信長に敵対。1570年姉川の戦いに大敗し、73年小谷城で自刃。淀君よどぎみの父。

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世界大百科事典内の浅井長政の言及

【姉川の戦】より

…1570年(元亀1)6月28日,近江国野村・三田村(現,滋賀県浅井町)付近の姉川河原で織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の属将)連合軍を撃破した戦い。同年4月信長は越前の朝倉氏を攻撃したが,近江小谷(おだに)城の妹婿浅井長政が突然に信長にそむいて挙兵し退路を遮断した。…

【近江国】より

…旧国名。江州。現在の滋賀県にあたる。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。〈淡海〉〈近淡海(ちかつおうみ)〉とも表記される。滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高島の12郡からなる。《延喜式》のほか738年(天平10)の〈上階官人歴名〉(《正倉院文書》)によって当時も大国であったことが判明する。国衙跡が大津市瀬田神領町の三大寺丘陵で発掘され,国府域は方8町の四周に半町の外縁がめぐっていたと考えられている。…

【小谷方】より

…〈お市の方〉とも呼ぶ。はじめ近江小谷城主浅井長政に嫁し3女をもうけるが,浅井氏滅亡後娘たちとともに織田氏のもとに帰り,のち柴田勝家に再嫁する。1583年4月24日,羽柴(豊臣)秀吉に攻められ,越前北ノ庄にて勝家とともに自害した。…

※「浅井長政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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