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淀殿 ヨドドノ

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デジタル大辞泉の解説

よど‐どの【淀殿】

淀君(よどぎみ)

出典|小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

淀殿 よどどの

1567-1615 織豊-江戸時代前期,豊臣秀吉の側室。
永禄(えいろく)10年生まれ。浅井長政の長女。母は小谷(おだに)(お市)の方。浅井氏滅亡後,柴田勝家に再嫁した母にしたがい越前(えちぜん)(福井県)北庄城にはいる。柴田氏の滅亡後は豊臣秀吉にひきとられ,側室となる。秀頼を生み権勢をふるい,秀吉の死後大坂城にうつる。大坂の陣で敗れ,慶長20年5月8日秀頼とともに自刃(じじん)。49歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は茶々。通称は別に二の丸殿,西の丸殿。淀君は後世の呼称。
【格言など】花もまた君のためにと咲き出でて世にならびなき春にあふらし(醍醐(だいご)の花見での歌)

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

淀殿

没年:元和1(1615)
生年:生年不詳
豊臣秀吉の側室。浅井長政お市の方の長女。ちゃちゃ,二の丸殿,西の丸殿とも。天正1(1573)年,織田信長に攻められ浅井氏は滅亡,お市の方,ちゃちゃら母娘は信長のもとに送り返された。信長の死後,柴田勝家に再嫁したお市の方と共に越前北ノ庄城(福井市)に移るが,同11年,秀吉に攻められて勝家,お市の方は自害。3人の娘は秀吉に保護され,のちちゃちゃは秀吉の寵愛を受けるようになる。同17年3月淀城に入り,淀の方と呼ばれた。同年5月長子鶴松を生むが,鶴松は夭折。秀吉の小田原攻めに際しては小田原まで出向き,文禄の役には肥前名護屋の秀吉のもとに赴いている。文禄2(1593)年,大坂城二の丸で次男秀頼を出産。秀吉が待ち望んでいた豊臣家の嫡子を生んだことで側室中第1の立場となり,慶長3(1598)年の醍醐三宝院での観桜の際には,松丸殿と杯の順番を争うほど権勢を誇った。秀吉の死後,秀頼と共に大坂城に入り,西の丸に住んだ。その地位は正室北政所をしのぎ,北政所は京都三本木に隠棲することになる。しかし大坂の陣で豊臣方は敗北,秀頼と共に命を絶った。政略面で徳川家康に敗れたものの,秀吉の死後,秀頼の後見として後家役割を果たしたと評価することができる。淀殿はまた,父母長政,お市の方の画像を高野山持明院に納め,追善供養を行い,京都に菩提寺養源院を建立。ここには秀吉から300石が寄進されている。<参考文献>桑田忠親『淀君』

(田端泰子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

淀殿
よどどの
(1567―1615)

安土(あづち)桃山時代の女性。豊臣(とよとみ)秀吉の側室。呼び名は茶々(ちゃちゃ)。浅井長政(ながまさ)の長女。母は織田信長の妹お市。1573年(天正1)父長政が信長に攻められ小谷(おだに)城(近江(おうみ)国)で自殺したとき、母と2人の妹とともに救出され尾張(おわり)に移住。82年、お市が柴田(しばた)勝家に再嫁したので、姉妹3人ともに越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)城に移った。翌年、勝家が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ落城したとき、お市は勝家とともに自殺したが、姉妹は救出され秀吉に預けられた。88年ころに秀吉の側室となり、89年ころには山城(やましろ)の淀城に住し、世に淀殿とよび、淀の局(つぼね)と称した。この年棄丸(鶴松)を産み(夭死(ようし))、ついで93年(文禄2)秀頼(ひでより)を産み、秀吉の寵愛(ちょうあい)を一身に受け、世継ぎの「お袋様」として正室をしのぐほどの威勢を誇るに至る。秀吉の没後は、遺言により秀頼を擁して伏見(ふしみ)城より大坂城に移り(1596)、豊臣氏2世秀頼の母公として権勢を振るい政治にも容喙(ようかい)して豊臣氏の天下を危うくし、大坂冬の陣・夏の陣を経て、1615年(元和1)5月7日、秀頼とともに城を枕(まくら)に自害した。[橋本政宣]
『桑田忠親著『淀君』(1985・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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