(田端泰子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土(あづち)桃山時代の女性。豊臣(とよとみ)秀吉の側室。呼び名は茶々(ちゃちゃ)。浅井長政(ながまさ)の長女。母は織田信長の妹お市。1573年(天正1)父長政が信長に攻められ小谷(おだに)城(近江(おうみ)国)で自殺したとき、母と2人の妹とともに救出され尾張(おわり)に移住。82年、お市が柴田(しばた)勝家に再嫁したので、姉妹3人ともに越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)城に移った。翌年、勝家が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ落城したとき、お市は勝家とともに自殺したが、姉妹は救出され秀吉に預けられた。88年ころに秀吉の側室となり、89年ころには山城(やましろ)の淀城に住し、世に淀殿とよび、淀の局(つぼね)と称した。この年棄丸(鶴松)を産み(夭死(ようし))、ついで93年(文禄2)秀頼(ひでより)を産み、秀吉の寵愛(ちょうあい)を一身に受け、世継ぎの「お袋様」として正室をしのぐほどの威勢を誇るに至る。秀吉の没後は、遺言により秀頼を擁して伏見(ふしみ)城より大坂城に移り(1596)、豊臣氏2世秀頼の母公として権勢を振るい政治にも容喙(ようかい)して豊臣氏の天下を危うくし、大坂冬の陣・夏の陣を経て、1615年(元和1)5月7日、秀頼とともに城を枕(まくら)に自害した。
[橋本政宣]
『桑田忠親著『淀君』(1985・吉川弘文館)』
1569?~1615.5.8
淀君とも。豊臣秀吉の側室,秀頼の母。近江国小谷(おだに)城主浅井長政の女,母は織田信長の妹小谷の方。名は茶々。1573年(天正元)小谷落城の際,母妹とともに城を出,織田家の庇護をうける。82年,柴田勝家と再婚した母に従い,越前国北庄へ移る。83年の北庄落城の際,妹2人(初はのち京極高次の室常高院,江はのち徳川秀忠の室崇源院)と城を出て秀吉の庇護をうける。のち山城国淀城に移り,秀吉の側室となる。89年鶴松を生むが夭折,93年(文禄2)秀頼を生む。秀吉の死後は,秀頼の後見として政治に関与し,徳川家康と対立。大坂の陣で徳川氏に敗れ,1615年(元和元)秀頼とともに大坂城で自害。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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