広島村(読み)ひろしまむら

日本歴史地名大系 「広島村」の解説

広島村
ひろしまむら

[現在地名]北広島市青葉町あおばちよう朝日町あさひちよう泉町いずみちよう稲穂町西いなほちようにし稲穂町東いなほちようひがし大曲おおまがり大曲工業団地おおまがりこうぎようだんち大曲幸町おおまがりさいわいちよう大曲末広おおまがりすえひろ大曲中央おおまがりちゆうおう大曲並木おおまがりなみき大曲柏葉おおまがりはくよう大曲光おおまがりひかり大曲緑ヶ丘おおまがりみどりがおか大曲南ヶ丘おおまがりみなみがおか北の里きたのさと希望ヶ丘きぼうがおか共栄きようえい共栄町きようえいちよう広葉町こうようちよう栄町さかえちよう里見町さとみちよう島松しままつ白樺町しらかばちよう新富町西しんとみちようにし新富町東しんとみちようひがし高台町たかだいちよう中央ちゆうおう輝美町てるみちよう富ヶ岡とみがおか中の沢なかのさわ西の里にしのさと西の里北にしのさときた西の里東にしのさとひがし仁別にべつ東共栄ひがしきようえい東の里ひがしのさと・広島・北進町ほくしんちよう松葉町まつばちよう美咲き野みさきの美沢みさわ三島みしま南町みなみちよう南の里みなみのさと山手町やまてちよう緑陽町りよくようちよう若葉町わかばちよう輪厚わつつ輪厚中央わつつちゆうおう輪厚元町わつつもとまちなど

明治二七年(一八九四)二月札幌郡月寒つきさつぷ(現札幌市豊平区・清田区)から分村独立し、昭和四三年(一九六八)の町制施行までの村。明治二七年二月広島村戸長役場が開設された(広島町の歩み)。近世はシュママップ場所のうち。


広島村
ひろしまむら

[現在地名]新井市広島

せき川が大きく蛇行する辺り、国賀こくか台地の用水が集まる所に立地。関川対岸向広島むかいひろしま村、西隣は百々どうどう村。関川の好適な徒渉地点で、近世は関川流域諸村の年貢米津出しの湊でもあった。五社神社境内にある石造地蔵菩薩立像光背の上部に「弘治□□」「丁巳□月□日」、下部に「広島村」とあり、弘治三年(一五五七)の作とみられる。

近世、村内では全耕地について割地を実施している。享保一六年(一七三一)の割地由来書(広島区蔵)に「当村之義、関川通り地面川欠水押等之損地御座候節ハ、五、七ケ年ニ一度ツヽ地割仕候、猶又川端通之義ハ、年ニヨリ毎年も割直し申義御座候事」とある。文政七年(一八二四)の田畑割地過不足勘定帳(同区蔵)によると、高四六四石六斗一升七合を籤五四本で割り、一本の高八石六斗四合としている。


広島村
ひろしまむら

[現在地名]栗橋町北広島きたひろしま

河原代かわらだい村の北東にあり、正保国絵図・田園簿では広島新田とみえる。田園簿によると田高二六〇石余・畑高二三二石余で、幕府領元禄郷帳では高一八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本久津見領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同じ。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)


広島村
ひろしまむら

[現在地名]吉川町南広島みなみひろしま

川藤かわふじ村の北に位置し、村の東を庄内古しようないふる川が流れる。慶長年間(一五九六―一六一五)に開発され、正保国絵図では広島新田と記され、元禄八年(一六九五)検地で広島村と改められたという(風土記稿)。田園簿に広島新田とあり、田高五三三石余・畑高三〇石余で、幕府領。


広島村
ひろしまむら

[現在地名]白川町さかひがし 広島

飛騨川右岸の河岸段丘上に位置する。南は大利おおり村・相模さがみ村、西は尾張藩御料林七宗ひちそう山。坂ノ東村の枝村六ヵ村の一つで、広島組とも称した。元禄郷帳では高一〇六石余。「濃州徇行記」によると高一二一石余、田畑一〇町八反余、家数二一・人数一〇二、馬一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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