日本歴史地名大系 「新井市」の解説 新井市あらいし 面積:一七三・二三平方キロ(境界未定)市域南部から東部にかけての関田(せきだ)山脈に源を発する土路(どろ)川・長沢(ながさわ)川・平丸(ひらまる)川・馬場(ばば)川などの諸流は、市域中央部を北流する関(せき)川に注ぐ。妙高(みようこう)山北東山麓の金(かな)山(七六六・九メートル)・神奈(かんな)山(一九〇九メートル)付近から発する渋江(しぶえ)川・片貝(かたかい)川は小出雲(おいずも)で合流し、月岡(つきおか)で関川に注ぐ。また西部の頸城(くびき)連山の小流は急勾配で北東流する矢代(やしろ)川に注ぐ。関川と矢代川がほぼ並行して流れる中央部から北部にかけては、沖積層の地形をなす。関川と矢代川に挟まれて、南には高床(たかとこ)山(五二七・七メートル)。東側には鍋倉(なべくら)山(一二八八・八メートル)・仏(ほとけ)ヶ峰(一一四〇メートル)が並ぶ関田山脈で長野県飯山(いいやま)市と接する。西側は青田南葉(あおたなんば)山(九四九・三メートル)・重倉(しげくら)山(一〇二九メートル)・大毛無(おおけなし)山(一四二九メートル)が並ぶ頸城連山で上越市・西頸城郡名立(なだち)町に接する。南は中頸城郡中郷(なかごう)村・妙高(みようこう)村、北は上越市・中頸城郡板倉(いたくら)町に接する。集落は東部の関川支流の各流域と、諸河川が流れ込む中央部の沖積地と、西部の頸城連山の山麓部および矢代川流域とに立地する。頸城連山の山麓部は豪雪地帯で、春・夏は関川・矢代川の水源となって頸城平野の灌漑用水となる。文化七年(一八一〇)の新井村明細帳(金子以策氏蔵)に「村立応永十年」と記される。応永一八年(一四一一)の居多神社社領注文(居多神社文書)に「新井新保」とみえる。〔原始〕縄文期の遺跡は小原(こばら)新田、志(し)、志の字狐塚(きつねづか)、梨木(なしのき)、宮内(みやうち)、雪森(ゆきもり)、長沢の字番場平(ばんばだいら)・上番場、大貝(おおがい)などにみられる。いずれも矢代川・関川に臨む丘陵ないしは台地上に立地し、まれに扇状地上の新田地帯にもみられる。概して矢代川流域の遺跡の標高は関川流域より低い。縄文中期のものが多く、後期、前期、晩期の順となっている。弥生期の遺跡は少ない。後期末の集落跡が宮内の斐太(ひだ)神社裏の矢代山(やしろやま)・上(うえ)ノ平(たいら)・百両山(ひやくりようやま)などにみられる。古墳は後期の群集墳が特色で、矢代川・関川流域の標高四〇―五〇メートルの扇状地を望む位置にみられる。宮内の斐太遺跡・観音平(かんのんだいら)古墳群・天神堂(てんじんどう)古墳群、小丸山(こまるやま)新田の小丸山古墳群、大沢(おおさわ)新田・小原新田・大原(おおはら)新田の原通(はらどおり)古墳群と百数十基に及ぶ。〔古代〕古墳群の分布する市域中央部は、関川以西が「和名抄」所載の栗原(くりはら)郷に、関川以東が板倉郷にそれぞれ比定され、また「延喜式」神名帳にみえる斐太神社を両郷の総社とみる説がある。この地域は信濃国と越後国を結ぶ交通の要地で、大字新井からは、関川本流をたどる道、土路川・長沢川・平丸川・馬場川をそれぞれたどる道が、いずれも信濃国へ通じる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by