朝日日本歴史人物事典 「広瀬青邨」の解説
広瀬青邨
生年:文政2.8.15(1819.10.3)
幕末・明治前期の儒学者。名は範治,字世叔,青邨は号。豊前国下毛郡土田村(大分県三光村土田)の矢野徳四郎と母末広氏の次男。16歳のとき豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に入る。嘉永4(1851)年淡窓70歳の時,弟旭荘は江戸にあり,旭荘の子林外は16歳だったため,淡窓は当時33歳の矢野範治を養子とし,都講として咸宜園を継がせた。安政3(1856)年淡窓の没後,林外に継がせ,万延・文久のころ府内藩(大分県)藩主松平氏に仕え,藩校遊焉館に教授した。維新後,漢学所出仕,明治8(1875)年岩手県7等出仕兼判事,次いで権参事,また修史局に帰り,廃局後は東京牛込神楽坂に東宜園を開いて教授,さらに華族学校に奉職した。<参考文献>『増補改訂大分県偉人伝』『広瀬家一門の光彩』
(沼田哲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報