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広瀬青邨 ひろせ せいそん

美術人名辞典の解説

広瀬青邨

幕末・明治の書画家。淡窓の義子。本名は矢野範治、字は世叔。淡窓の門で学び、詩を能くし、書にも優れ、また画にも巧みで蘭竹を好んだ。明治17年(1884)歿、66才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

広瀬青邨 ひろせ-せいそん

1819-1884 幕末-明治時代の儒者。
文政2年8月15日生まれ。広瀬淡窓の咸宜(かんぎ)園にまなび,養子となる。豊後(ぶんご)(大分県)府内藩につかえ,維新後は修史局勤務などをへて東京に私塾東宜園をひらく。「青邨日記」をのこした。明治17年2月3日死去。66歳。豊前(ぶぜん)下毛郡(大分県)出身。本姓は矢野。名は範治。字(あざな)は世叔。

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朝日日本歴史人物事典の解説

広瀬青邨

没年:明治17.2.3(1884)
生年:文政2.8.15(1819.10.3)
幕末・明治前期の儒学者。名は範治,字世叔,青邨は号。豊前国下毛郡土田村(大分県三光村土田)の矢野徳四郎と母末広氏の次男。16歳のとき豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園に入る。嘉永4(1851)年淡窓70歳の時,弟旭荘は江戸にあり,旭荘の子林外は16歳だったため,淡窓は当時33歳の矢野範治を養子とし,都講として咸宜園を継がせた。安政3(1856)年淡窓の没後,林外に継がせ,万延・文久のころ府内藩(大分県)藩主松平氏に仕え,藩校遊焉館に教授した。維新後,漢学所出仕,明治8(1875)年岩手県7等出仕兼判事,次いで権参事,また修史局に帰り,廃局後は東京牛込神楽坂に東宜園を開いて教授,さらに華族学校に奉職した。<参考文献>『増補改訂大分県偉人伝』『広瀬家一門の光彩』

(沼田哲)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

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