共同通信ニュース用語解説 「シンガポール」の解説
シンガポール
国土面積は東京23区よりやや大きい都市国家で、マレー半島の南端の島に位置する。1965年にマレーシアから分離独立。人口601万人で資源もないが、地理的優位を生かし、金融や物流ハブ(拠点)として各国の多国籍企業の地域統括拠点を誘致。1人当たりの国内総生産(GDP)でアジア首位になった。華人が国民の7割超を占める。(シンガポール共同)
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翻訳|Singapore
国土面積は東京23区よりやや大きい都市国家で、マレー半島の南端の島に位置する。1965年にマレーシアから分離独立。人口601万人で資源もないが、地理的優位を生かし、金融や物流ハブ(拠点)として各国の多国籍企業の地域統括拠点を誘致。1人当たりの国内総生産(GDP)でアジア首位になった。華人が国民の7割超を占める。(シンガポール共同)
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東南アジア南部、マレー半島南端にあるシンガポール島とその属島からなる国。正称はシンガポール共和国Republic of Singaporeという。面積は683平方キロメートルで、日本の淡路(あわじ)島よりやや大きい。人口459万(2007)。1965年、マレーシア連邦から離脱して独立した。古くはトゥマシクとよばれたが、12世紀にスマトラ島の王子がここで獅子(しし)(シンガ)を見て獅子の町(シンガ・プラ)と命名したという。のちにそれを英語読みにしてシンガポールとなった。マラッカ海峡、シンガポール海峡など世界の交通、戦略的要点を扼(やく)する重要な位置を占める。独立後、経済的発展が目覚ましく、1人当り国民総所得(GNI)は2万9207ドル(2006)でアジアではカタール、クウェート、日本に次ぐ。
[別技篤彦・賀陽美智子]
シンガポール島は構造的にはマレー半島の延長であるが、狭いジョホール水道を隔てて半島部と切り離されている。島の中央および北部は花崗(かこう)岩性の丘陵地で、最高点はブキ・テマの177メートルにすぎない。南西部も丘や谷が錯綜(さくそう)するが、東部は低地が多い。そこをシンガポール川、ジュロン川、ゲイラン川の諸川が南方に、クランジ川、セラングン川などが北および東方に流れるが、いずれも小さい。密林はいまは中央部の丘陵地のみに残り、水源地保安林とされている。ジョホール水道の東部は水深が深く、セレター軍港を有するほどであるが、西部は一般に浅い。なお南部のシンガポール海峡に面してはサンゴ礁の発達もみられる。
気候は、赤道に近いため熱帯雨林型で、年平均気温27.4℃、年降水量は2087ミリメートルに及ぶが、年間を通じ平均して降るので明確な乾期、雨期の区別はない。降雨はほとんどスコール型である。
島の南部一帯にシンガポール市街地が広がる。その南端はフェーバーの丘(105メートル)となって沖合いのセントサ島との間にシンガポールの商港ケッペル港を抱く。商業の中心ラッフルズ広場やにぎやかなチャイナタウンも南部の海岸近くにある。東西に走るオーチャード通りはかつてのイギリス人の高級住宅地から、多くのホテル、シンガポール大学などの並ぶ市街地区に変わっている。また市街地は北に延び、トーアパヨ団地のような高層住宅群に続く。海岸低地を埋め立てての土地造成も盛んである。一方、島の中央部の丘陵地にはいくつかの貯水池が並んで自然保護地域を形成する。かつてゴム園などの分布した北部・東部もチャンギ国際空港などが開かれて発展しつつある。また島の南西部にはジュロン工業団地が建設され、これとシンガポール市街を結ぶハイウェーもつくられた。ジョホール水道の上には約1キロメートルの長堤があり、鉄道、道路、水道がマレーシアと直結している。こうして島全体に近代的変貌(へんぼう)が著しいが、ジョホール水道西部に臨む海岸にはなおマングローブなどの茂る地域も残っている。
[別技篤彦・賀陽美智子]
マレー人の史書によると、12世紀にスマトラ島の王族の一人がここにシンガ・プラの町を建設、海峡を通る船舶を制圧して商業的に繁栄したが、14世紀末にはジャワ島のマジャパヒト王国の遠征を受けて滅びた。その後マレー半島のジョホール首長国の支配下にあったが、荒廃してほとんど居住者もないままに放棄されていた。1819年1月、東南アジア進出を計画したイギリスの植民政策家スタンフォード・ラッフルズが島の重要性を認めてこれをジョホール首長から買収した。彼はかつての城址(じょうし)(フォート・カニングの丘)に政庁をつくり、市街地を区画して民族ごとの居住地を建設した。近代シンガポールの歴史はこれから始まる。
1824年に正式にイギリス領、1826年にペナン、マラッカとともにイギリス領インド所属の海峡植民地となった。自由貿易港としたため、たちまち東南アジア有数の国際的都市に成長し、1833年にはすでに2万の人口をもつに至った。その後1867年イギリスはここを本国直轄植民地とし、軍事的にもアジア政策遂行の一大拠点とした。しかし住民の大部分は華僑(かきょう)系が占めた。第二次世界大戦では1942年2月日本軍が占領し、昭南市と改名した。
第二次世界大戦後、民族主義の高揚によりイギリスから自治を獲得、1963年になってマレーシアとともにマレーシア連邦を形成して独立を達成した。しかし住民の大多数を占める中国系住民はマレー系住民に指導されることを好まず、またインドネシアがマレーシア連邦結成に反対していたこともあって、1965年分離独立しシンガポール共和国が成立した。1971年末には駐留イギリス軍の撤退も完了し、国防の負担もシンガポール自身が負うこととなった。
[別技篤彦・賀陽美智子]
政体は大統領を元首とする共和国である。全人口の75%は中国系であるが、もともとマレー人の地であった事情を考慮して、大統領には中国系以外の人(初代はマレー系)を選んでいる。任期は6年である。しかし国の政治の実権は中国系人が握る。国会は一院制で議席数は84、任期は5年である。独立以来通算31年間首相を務めたリー・クアン・ユー(李光耀、1990年以後上級相を務め、2004年より内閣顧問)が率いた人民行動党(PAP)がほとんど全議席を独占し、独裁的傾向が強い。2006年の総選挙での獲得議席数は人民行動党82、民主同盟1、労働党1となっている。リー・クアン・ユーの後を受けてゴー・チョクトンが14年間首相を務め、2004年からリー・シェン・ロンが首相についている。小国家ながら行政組織は完備し、内閣は13省からなり、簡素化により能率をあげている。
国防にも努力し、徴兵制(2年の兵役義務)をとり、陸軍5万人、海軍9000人、空軍1万3500人の兵力を擁している。国内の政情は安定している。
外交的には非同盟中立政策を基本方針として、可能な限り多くの国と友好関係を維持することに努めている。国際情勢に機敏に対応し、多角的かつ現実的に処理しているが、東南アジア情勢の進展に伴い、東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))の強化に努力している。他のASEAN諸国に比べて発展段階が高く、立場を異にする点が多いにかかわらず、他の9か国と協調する方針をとっている。実質的には中国人国家であるため、「第三の中国」化を警戒する声がASEAN諸国に強い。
[別技篤彦・賀陽美智子]
シンガポールは長く自由港として中継貿易で栄えてきたが、第二次世界大戦後は周辺各国の経済の自立化とともに中継貿易は不振となった。このため外資導入を軸として重化学工業を主体とした工業化政策が進められ、産業立国へ大きく国策を転換した。これが奏功して1968~1973年には平均14%の国内総生産(GDP)の成長を示した。現在は失業率2.1%(2007)でほぼ完全雇用を達成、国内総生産(GDP)1520億2900万ドル(2007)、国民1人当り国内総生産も3万5163ドル(2007)となり、アジアでは日本に次ぐ工業国に発展した。工業は食品、衣料から造船、石油、電子機械にまで及んでいる。その中心は南西部に建設されたジュロン工業団地で、1994年には工場数約6500、従業員数33万3099人に及び、ジュロン・ニュータウンの建設も同時に進められた。政府の意図するところは、国の人口が少ないため、労働集約部門で他の開発途上国と競争することを避けて、オイル・リグ、エンジニアリングなどの資本集約的あるいは技術集約的産業への転換を計ることにあり、このため高賃金政策をとって労働集約的産業の整理を行ってきた。このほか国内消費用野菜などの集約的栽培、周辺水域での漁業などもみられるが、その規模は小さく、輸入に依存している。
輸出は、工業化の進展による工業製品と、従来のゴム、木材などの中継貿易とからなり、総額2290億0300万ドルに達する。輸入は機械類、鉱物燃料、化学製品が大部分を占め、総額2627億4300万ドルに及ぶ(2007)。見かけ上は入超が続いているが、金融、海運、観光などの貿易外収入が多く、また外資流入による資本収支が大幅な黒字となっているため総合収支では黒字である。なお全貿易高の13%はマレーシア、これに次いでアメリカ11%、中国11%、インドネシア8%、ついで日本となっている(2006)。シンガポールは世界貿易機関(WTO)が進める自由貿易交渉のほかに二国間自由貿易協定(FTA)にも積極的で、日本、アメリカ、オーストラリア、韓国、インド、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)をはじめ、ASEAN諸国、中国などの各国と協定を結び、世界規模で推進している。
シンガポールはまたアジア・ダラーの拠点としても知られ、同国の経済的発展に伴って、ニューヨーク、ロンドン、東京に次ぐ国際金融市場として成長し、1996年にはイギリスの大手銀行バンカーズ・トラストが東京支店の外国為替業務をシンガポール支店に移管するなど、国際金融センターとしての地位を向上させた。シンガポール港は依然として海運の一大中心である。またチャンギ国際空港では年間約3337万人の国際乗降旅客(2006)を運んでいる。鉄道は島を横断してマレーシア本土へ通じる国際線がある。バス網がよく発達し、乗用車は49万8000台(2006)に達している。
[別技篤彦・賀陽美智子]
人口のうち中国系は75%を占め、ついでマレー系14%、インド系9%、その他2%であり、複合社会の構造を呈している(2008)。マレー語を国語とし、歴史的条件を考慮してマレー語、中国語、タミル語および英語の4か国語が公用語として認められているが、「行政上の用語」には英語が使われている。イギリス人は著しく減少したが、それにかわって近年はアメリカ人、日本人の進出が目覚ましい。政府は、人口密集地である旧市街地の再開発に着手し、いくつかの高層住宅団地群を建設しており、すでに全人口の30%以上がこの低廉な団地へ移動した。しかし国の経済的発展にもかかわらずなお民族別の生活格差が存在し、「農村(カンポン)」地域に住むマレー人、インド人の不満は大きい。政府は福祉の面においても努力しており、物価上昇率を低く抑え、医療設備を充実させ、またさまざまの厳しい規制を設け(たとえば若者の長髪やたばこの吸い殻の放棄の禁止など)、「アジアのミスター・クリーン」とよばれるにふさわしい清潔な社会を実現している。
教育制度は小学校6年間、中学校4~5年間、高校1~3年間、大学3年間となっており、義務教育は小学校の6年間のみであるが教育の普及は目覚ましい。小学校1年から英語と他の言語(中国語、タミル語、マレー語のいずれか)を学ぶ二言語(バイリンガル)教育が行われているが、最近では英語を偏重して自国語を軽視する傾向も生じてきたため、その対策が新しい問題となりつつある。大学は、シンガポール大学が古くから有名で、戦後中国人系のための南洋(ナンヤン)大学がつくられたが、現在は統合されて国立シンガポール大学となっている。また南洋工科大学、シンガポール経営大学がある。宗教はそれぞれの民族により異なり、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など各種の宗教が信奉されている。主要日刊紙には英字紙の『ストレーツ・タイムズ』、中国語紙の『聯合(れんごう)早報』などがある。テレビ放送はマレー語、中国語、タミル語、英語の4か国語で放送している。なお、国営のSBC放送は1994年に民営化された。2003年のテレビ保有世帯率は約99%で、東南アジア諸国でもっとも高く、携帯電話加入契約数も100人当り126.7とアジアでもトップクラスである。
[別技篤彦・賀陽美智子]
第二次世界大戦後シンガポールは、日本の経済成長を自国のモデルとし、日本との関係は急速に緊密になった。貿易面でも日本は第五の相手国で、日本からの輸入は半導体など電子部品、機械機器、鉄鋼、繊維品などで2兆5660億円、日本への輸出は石油製品、機械機器等で8290億円(2007)である。恒常的に日本側の出超となっている。ジュロン工業団地への投資、無償の資金協力、技術者養成の援助など、シンガポールの経済成長に日本の支援は大きな役割を果たした。1990年代にはシンガポールは援助国に成長し、日本の政府開発援助(ODA)は有償資金協力が1972年度、無償資金協力が1987年度、技術協力が1998年度まで行われたが、以降は打ち切りとなっている。また2万6370人(2006)に及ぶ在留日本人の子弟のため、設備の整った日本人学校も開かれた。日本から訪れる観光客も、1990年代後半には年間100万人を超えるまでになったが、2002年、2003年には重症急性呼吸器症候群(SARS(サーズ))の流行や鳥インフルエンザの発生、経済不況の影響などで50万人を割り込むなど激減した。2004年には約60万人にまで回復している。
[別技篤彦・賀陽美智子]
『高橋弘殷著『シンガポールからの報告』(1980・日本放送出版協会)』▽『岩崎育夫著『アジア二都物語 シンガポールと香港』(2007・中央公論新社)』▽『田村慶子著『シンガポールを知るための62章』(2008・明石書店)』
シンガポール島南部に広がる、シンガポール共和国の首都で、国際貿易都市である。前面にセントサ島ほかの小島を控え、東西交通の要地シンガポール海峡に臨む。人口401万7733(2000)。優れた地理的位置により、1819年イギリスの政治家ラッフルズが基地を建設して以来、東南アジアの自由港、貿易港として発展した。現在もヨーロッパと東南アジアを結ぶ主要航路に位置し、マレーシア、インドネシアをはじめ東南アジア各地への中継貿易が活発である。市の中心にはラッフルズ広場があり、これを囲んで官庁、商社が建ち並ぶ。国立博物館はチョウや魚類など東南アジアの自然の豊富なコレクションで知られる。また中国式のタイガー・バーム・ガーデン、バン・クリーフ水族館、フォート・カニングの丘など多くの名所がある。都心から北西に延びるオーチャード通りは、デパートや一流ホテル、大ショッピング・センターが並ぶ市内きっての繁華街である。
[別技篤彦]
基本情報
正式名称=シンガポール共和国Republic of Singapore
面積=712km2
人口(2010)=508万人
首都=シンガポール(日本との時差=-1時間)
主要言語=中国語,英語,マレー語,タミル語
通貨=シンガポール・ドルSingapore Dollar
マレー半島の南端,赤道の近くに位置する共和国。国土は合計54の島からなり,主島シンガポール島は東西42km,南北23kmの菱形をしている。このほか面積1km2以上の島は9島で,他の多くは無人島である。
熱帯雨林気候に属し,一年中高温多湿である。年平均気温約27℃で,暑い時でも日中30℃を超えることは少なく,やや雨が多くなる11~1月には涼しい朝が訪れる。年降水量は約2400mmで比較的安定した降雨がある。しかし都市用水の自給自足は困難なため,マレーシアに水源を求めている。主島の大部分は堆積岩質の低い丘陵と沖積地からなり,ところどころに火成岩質の残丘が突き出すだけの低平な地形である。最高点はブキ・ティマの175m。島の中央にわずかに残る原生林と海岸のマングローブのほかは,自然植生はほとんどない。1960年代以降,工業用地や宅地,都市・港湾施設造成によって丘陵は削られ,海岸は埋め立てられ,人工的な地形と植生が目だつようになった。今日,主島海岸線のほぼ70%は自然の姿を変えてしまった。
多人種国であるが,国民の77.4%は華人(中国系)で,残りはマレー系14.2%,インド系7.2%,その他1.2%と少ない(1995)。国民の大部分はシンガポールに生まれ,移民一世たちも出身国との関係が薄くなっているので,もはや華僑,印僑の名にふさわしい人はほとんどいない。今日,全住民の70%が公営住宅団地に住む。そこでは政府が同一人種,同一言語の集団形成を排除したため,かつての同郷者の地域的集中や,人種別の居住区は崩壊し,新しいシンガポール人の地域社会が出現しつつある。公用語は国語のマレー語のほか,標準華語(北京語),タミル語,英語の四つであるが,行政用語は英語と定められ,国語は名目上の存在と化している。1970年代末から強化された2言語政策は,全シンガポール人に共通語としての英語の修得を義務づけ,同時にアジア民族の特質を明示するため,各人種に対応する公用語をもそれぞれ使うよう要求している。87年に英語が学校教育用語に定められた。他方,タミル語の小学校は消滅し,マレー語の学校も生徒数がきわめて少なくなった。75年に華語教育から英語教育へ移行した南洋大学は80年に閉鎖され,大学は国立シンガポール大学1校のみになった。
宗教はキリスト教を除くと人種または言語集団に深く結びついている。華人と仏教や道教,マレー系とイスラム,インド系とヒンドゥー教がそれぞれ強い関係をもち,各寺院の集会では現在なお華語方言やインド各地の言語が使われ,異なった地方の祭事が行われることもある。多様な文化的特色は人々の服装や食習慣にもよく表れており,観光名所となった野外飲食店街(華語名では食物中心)へ行けば,中国,インド,ヨーロッパの伝統的な味,それらを混合して現地化した食事を楽しむことができる。しかしこの多様性は,シンガポール独自の文化的特色不在論につながり,中国人でもマレー人でもないシンガポール人とは何か,新しい民族の価値観はいかにあるべきか,の議論を生んでいる。
執筆者:太田 勇
シンガポールとはシンガプラ(サンスクリットで〈獅子の町〉の意)の転訛した呼称で,このシンガポール島には古くから貿易港があったらしいが,その歴史はイギリス東インド会社のラッフルズに始まるといってよい。1819年,ラッフルズは当時わずかの住民しか住んでいなかったこの島に到着し,島の支配者から植民地と商館建設の許可を得た。イギリスはラッフルズの活躍によりこの地域にペナン,マラッカ,シンガポールの3植民地を保有することになり,のちのイギリスのマラヤ支配の出発点となった。イギリスはシンガポールで商品作物を生産して,それを輸出するために獲得したのであるが,商品作物の生産は成功せず,自由港として発展することになった。シンガポールなど3植民地の地位は24年の英蘭協約によって確認され,32年には海峡植民地としてまとめられた。イギリスは海峡植民地を基地としてマレー半島の諸国に徐々に政治的支配を及ぼし,95年にはマレー連合州を組織した(正式発足は翌年)。海峡植民地は連合州とは別個に存続し,その知事は1909年以降高等弁務官として連合州をも含めたイギリス領マラヤ全体の統治の責任者となった。
シンガポールは自由港であったため,ヨーロッパ人,インド人,マレー人のほかに多数の華僑が来住し,また華僑の東南アジア移住への中継基地ともなった。明治以降は日本人移民も多数来住した。
第1次世界大戦に際してシンガポールは軍港として使用され,軍事面での重要性が認識された。第2次世界大戦ではシンガポール軍港は日本に対抗する拠点で,1941年7月に日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐すると,陸海空軍が増強された。しかし同年12月10日にはシンガポールを出港したイギリス東洋艦隊の主力艦2隻が日本軍に撃沈され,ついに42年2月15日シンガポールは降伏した。この間華僑義勇軍部隊は最後まで勇敢に戦った。このため日本軍は占領直後,抗日分子粛清を名目として多数の華僑を虐殺したほか,憲兵隊を通じて弾圧,強制献金の賦課を行った。
シンガポールの住民の大部分は華僑で,彼らの間では戦前から共産主義運動,労働運動が盛んであった。戦後,海峡植民地は解体され,ペナン,マラッカはマラヤ連合に含められる一方,シンガポールは単一のイギリス植民地となった。そして住民の政治運動,政治結社の結成が認められ,共産党も合法化された。しかし共産党のゲリラ活動が半島部で盛んになったため,48年6月マラヤ全土,シンガポールに非常事態が宣言されるとともに,共産党が非合法化され,住民の政治運動,労働組合運動も制限された。その一方で植民地体制から独立への移行も着々と進められ,55年の総選挙後D.マーシャルが首席大臣となり(のちリム・ユウ・ホックと交代),イギリスとの間に独立交渉がもたれた。59年の総選挙でリー・クワン・ユーの率いる人民行動党が圧勝し,シンガポールは彼を首相とする自治国となった。そして63年8月31日,完全独立を宣言し,同年9月16日,マレーシア連邦の結成に一州として参加した。しかしマレー系と中国系との間の人種対立の激化,シンガポールの財政負担の強化など,マレーシア中央政府とシンガポール双方にとって不利な事態が生じたため,65年8月9日,シンガポールは連邦を脱退して独立国となった。
シンガポールは大統領を元首とする議会制民主主義国家である。大統領は1991年の憲法改正以降,直接選挙で選出されるが,名誉職に近い存在で,実権は首相が握っている。リー・クワン・ユー首相は1959年以来首相の地位にあったが,90年に辞職し,ゴー・チョクトンGoh Choktong(1941~ )が後継首相に選出された。しかしリーは上級相として閣内にとどまり,にらみをきかせている。またその息子リー・シェンロンLee Hsienloong(1952~ )は後継者の本命と目され,97年現在副首相の地位にある。
立法府は一院制の議会(任期5年)で,直接選挙で選ばれる議員83名と任命議員6名とから成っている。与党人民行動党(PAP)が建国以来議席のほとんどを占めてきたが,1991年の選挙では77議席にとどまり,二つの野党が4議席を占めて,〈敗北〉を喫した。92年リーがPAP書記長を辞任,ゴーがこれに代わり,ゴー体制が確立して現在に至っている。ゴーは初めリー・シェンロンが首相となるまでの中継ぎと見られていたが,集団指導体制をとって独自の政治スタイルを確立しつつある。97年に行われた総選挙ではPAPは得票率65%で81議席を獲得,野党は2議席にとどまった。
シンガポールは自由港として出発し,つねに東南アジアの国際貿易の中心地であった。シンガポールは文字通りの島国で,自給自足できるものは豚,鶏,あひる,卵くらいのものである。しかしその一方で均質で教育水準の高い労働力があり,原料輸入,製品輸出の高度工業国家となるのに適した条件をそなえている。自由港の伝統は外資の導入,合弁企業の運営に違和感がなく,中国,香港,台湾,それに東南アジアの華僑との間のいわゆる華人ネットワークの存在が有利に働いている。
政府は建国以来工業化政策を積極的に推進してきた。それは造船,船舶修理といった労働集約的産業から始まり,やがて原料を輸入する石油精製,石油化学工業がこれに続いた。そして電気・電子工業へと拡大していった。政府は投資環境の整備,工業団地の造成,港湾設備の拡充,チャンギ国際空港の開設などを行ったほか,政治運動,労働運動に対しては規制を加えた。その一方で大規模な住宅団地,ショッピングセンターの建設,都市再開発,地下鉄の建設などを行い,国民に対して物質的な満足を与えることに努力している。1990年代に入り,周辺諸国で工業化が進むと,労働集約的産業や石油精製業は競争力を失い,それに代わって情報産業,金融センターとしての機能が充実してきた。このほか観光,小売業,病院などサービス産業の充実も見逃せない。
こうした急激な経済発展は人材不足を招き,閣僚が民間企業に移るなど,さまざまな問題が起こった。政府は中国語で教育を行っていた南洋大学をシンガポール大学に吸収させ,英語による教育を充実させるとともに,いくつかの高等工業専門学校を設立して,企業ミドルの人材の養成を行っている。
執筆者:生田 滋
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
マレー半島の南に位置するシンガポール島を領土とする東南アジアの国家。1819年イギリス人ラッフルズが,ジョホール・リアウ王国の王位継承紛争に介入して獲得した。その後,イギリスが自由港として開港し,急速に東南アジア交易の中心地へと発展した。1824年のイギリス‐オランダ協定でイギリス領として国際的に認知され,1826~1946年には海峡植民地の一つを形成した。昭南島と改称されていた第二次世界大戦中の日本占領期(42年2月~45年8月)には,日本軍による華人の虐殺事件も発生した。戦後の59年イギリスの自治州となり,63年マレーシアの一つの州として独立したが,65年8月にマレーシアから分離独立して共和国となった。国民のほとんどが19世紀以降の移民の子孫で,70%以上を占める華人のほか,マレー系,インド系などからなる多民族国家で,公用語も国語のマレー語,中国語,タミル語,英語の四つである。人民行動党が54年の結党以来一貫して政権を維持し続けている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
マレー半島南端に位置し,シンガポール島などの島々からなる国家。または同名の港市。19世紀初頭以来,イギリスの東洋支配の拠点となる。第2次大戦中は日本軍が占領,昭南と改称して軍政下にあった。1942年には反日分子として華僑5000人以上が殺害される事件がおきた。63年8月イギリスから完全独立,翌月マレーシア連邦の一員となるが,65年8月分離独立した。全人口のうち中国系約74%,マレー系約13%,インド系約9%という多民族・多言語状況で,公用語は英語・中国語・マレー語・タミル語だが,英語が中心に使われている。東南アジアの交通・戦略的要地を占め,経済的発展もめざましい。正式国名はシンガポール共和国。首都シンガポール市。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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