日本大百科全書(ニッポニカ) 「府内藩」の意味・わかりやすい解説
府内藩
ふないはん
豊後(ぶんご)国大分郡(大分市周辺)を領有した藩。譜代(ふだい)。1594年(文禄3)早川長敏(ながとし)が入封し、府内藩が成立。藩名は、豊後国府の所在地に由来する。以後、福原直高(なおたか)、早川長敏(再封)、竹中重利(しげとし)・重義、日根野吉明(ひねのよしあきら)を経て、1658年(万治1)松平(大給(おぎゅう))忠昭(ただあき)が2万2000石で入封し、以後、近陳(ちかのぶ)、近禎(ちかよし)、近貞、近形(ちかなり)、近儔(ちかとも)、近義、近訓(ちかくに)、近信、近説(ちかよし)と10代210年間にわたり領有。1678年(延宝6)近陳襲封のとき、1500石を忠昭の弟近鎮(ちかしげ)に分知。城下町府内は、福原直高のとき荷揚(にあげ)城築城、竹中氏時代に東西10町、南北9町の三重堀、三つの口屋(くちや)をもつ町として完成、近世豊後の最大の都市であった。藩は、領内を城下町とその周辺の8か村をあわせて町組とし、農村部を里(さと)・中(なか)・奥(おく)に分ける一町三郷制を採用して統治した。特産品としては、七島藺(しちとうい)や楮(こうぞ)、櫨(はぜ)などがある。18世紀なかばよりの財政窮乏は天保(てんぽう)期(1830~44)に至って借財20万両にも達し、家老岡本主米(しゅめ)および日田豆田町の豪商広瀬久兵衛(きゅうべえ)(淡窓(たんそう)・旭荘の弟)らによって藩政改革が実施された。1871年(明治4)廃藩置県により府内県、同年11月大分県に所属。
[豊田寛三]
『『大分市史 上』(1956・大分市)』