庄野村(読み)しようのむら

日本歴史地名大系 「庄野村」の解説

庄野村
しようのむら

[現在地名]鈴鹿市庄野町

石薬師いしやくし宿の南西に位置し、村域内を鈴鹿川が東流する。東海道庄野宿は南北八町、西にはあくた川が流れ、条里制水田がある。古来東岸の里屋敷さとやしきの地に集落を営み(古庄野という)、のち現在地に移ったという。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「庄野御厨二宮 件御厨建立・奉免子細相尋、追可注進也、供祭物 内宮方御贄米三石 外宮方」とあり、平安後期には神宮領になっていた。「神鳳鈔」にも、「内宮庄野御厨十丁、三石、六九十二月」とある。地名から、古く荘園の存在をうかがわせるものがあるが不明。戦国時代、神戸氏の家臣越後守小沢吉次が荘野しようの砦を築いていたというが(三国地志)、所在は不明。文禄検地帳(庄野公民館蔵)には、田畑屋敷ともに九四町七反二畝二九歩、分米合一千二一五石とある。慶長六年(一六〇一)から寛永一三年(一六三六)まで神戸かんべの一柳監物領であったが、以降は幕府領であった。

宿の設置は寛永元年とされるが、古老の伝えに「草分け三六戸、宿立て七〇戸」といわれ、宿の設立は七〇戸で出発したと伝える。慶安郷帳(明大刑博蔵)に高一二一七・三六石、うち一一八五・一一石御料御代官佐野平十郎、三二・二五石御免許御伝馬屋敷とあり、これが宿経費とされた。


庄野村
しようのむら

[現在地名]福島市庄野

土船つちふね村の南、荒川左岸に位置し、東は桜本さくらもと村、南は荒川を境に上名倉かみなぐら村。正野・正之とも記す。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方のうちとして「せうの村」とみえ、段銭は六貫八七五文。翌八年五月伊達稙宗が早世した子息玄蕃丸の菩提のため昌伝庵に「しやうのむらのミやてん二百かり、ねんく六百文の所」などを寄進している(同月二九日「伊達稙宗寄進状案」伊達家文書)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に正野とみえ高七四一石余。近世初期の邑鑑には生之村とあり、高七一一石、免二ツ二分、家数二二(役家一一・肝煎一・脇家一〇)、人数七三、役木として桑・楮がそれぞれ少しある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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