日本歴史地名大系 「度会郡」の解説
度会郡
わたらいぐん
北は伊勢市と伊勢湾、東は伊勢市と志摩郡の
「伊勢国風土記」逸文に「夫れ、度会の郡と号くる所以は、畝傍の樫原の宮に御宇しめしし神倭磐余彦の天皇、天日別命に詔して、国ぎたまひし時、度会の賀利佐の嶺に火気発起ちき」「宇治の郷は、風早の伊勢の国度会の郡の宇治の村の五十鈴の河上に、宮社を造りて太神を斎き奉りき」などと記される。「和名抄」によれば度会は「和多良比」とよむ。平城宮出土木簡に「伊勢国度□□□□」がみえ度会郡であろう。「続日本紀」文武二年一二月二九日条に「度会郡」、「日本書紀」(神功皇后)に「度逢県」がみえる。
伊勢・志摩両国間に境界の争いがあり、「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一〇月一五日条に「限伊勢大神宮之界樹標已畢而伊勢志摩両国相争於是遷尾垂於葦淵」とみえる。「皇太神宮儀式帳」に「神界、以東(中略)尾垂峰等為山堺」とあって、尾垂・葦淵が神界の東にあった。「和名抄」記載の志摩国
条里遺構は外城田川以北
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報