度会郡(読み)わたらいぐん

日本歴史地名大系 「度会郡」の解説

度会郡
わたらいぐん

面積:六八四・三九平方キロ
二見ふたみ町・御薗みその村・小俣おばた町・玉城たまき町・度会わたらい町・南勢なんせい町・大宮おおみや町・南島なんとう町・紀勢きせい町・大内山おおうちやま

北は伊勢市と伊勢湾、東は伊勢市と志摩郡の磯部いそべ町・浜島はまじま町、南は熊野灘、西は多気たき郡と北牟婁きたむろ紀伊長島きいながしま町に接する。北部では伊勢市が介在して二見町が飛地状になっている。太平洋斜面の南勢町と南島町のほかは、宮川とその支流大内山川・一之瀬いちのせ川および外城田ときだ川の流域である。北部の海岸部と外城田川流域に低地があるほかは平地に乏しく、紀伊山脈が東西に走りその北縁を中央構造線が通っている。太平洋岸は山地が沈水してリアス海岸をなし、ほとんど平地がない。宮川流域は河岸段丘がよく発達し段丘面の平坦地が形成されている。

「伊勢国風土記」逸文に「夫れ、度会の郡と号くる所以は、畝傍樫原の宮に御宇しめしし神倭磐余彦の天皇、天日別命に詔して、国ぎたまひし時、度会の賀利佐の嶺に火気発起ちき」「宇治の郷は、風早の伊勢の国度会の郡の宇治の村の五十鈴の河上に、宮社を造りて太神を斎き奉りき」などと記される。「和名抄」によれば度会は「和多良比」とよむ。平城宮出土木簡に「伊勢国度□□□□」がみえ度会郡であろう。「続日本紀」文武二年一二月二九日条に「度会郡」、「日本書紀」(神功皇后)に「度逢県」がみえる。

伊勢・志摩両国間に境界の争いがあり、「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一〇月一五日条に「限伊勢大神宮之界標已畢而伊勢志摩両国相争於是遷尾垂於葦淵」とみえる。「皇太神宮儀式帳」に「神界、以東(中略)尾垂峰等為山堺」とあって、尾垂・葦淵が神界の東にあった。「和名抄」記載の志摩国英虞あご郡に属した船越ふなこし(南勢町)道潟みちかた(南島町)芳草ほうざ(南島町)二色にしき(紀勢町)が現在いずれも当郡に入っている。北西部では「皇太神宮儀式帳」などに記載される滝原たきはら(皇大神宮の別宮。現大宮町)が「伊勢志摩両国堺大山中、在太神宮以西相去九十二里」とあるのでこの方面でも当郡の郡界は現状と異なっている。

条里遺構は外城田川以北長更ながふけ井倉いぐら(現玉城町)付近に最も顕著で、そのほか汁谷しるたに川流域、宮川下流右岸伊勢市・御薗村・二見町付近に若干みられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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