デジタル大辞泉
「伊勢市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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伊勢市
いせし
面積:一七七・九六平方キロ
北から西、南へかけて度会郡二見町、多気郡明和町、度会郡御薗村・小俣町・玉城町・度会町・南勢町に、東は鳥羽市と志摩郡磯部町に隣接する。北部は伊勢平野の末端部で、南部は紀伊山地の東端部となり、五十鈴川・勢田川・宮川が北流して伊勢湾に入る。海岸部は各河川の若いデルタと単調な砂浜海岸からなり、市街地は低く、市の中心でも標高四メートルに満たない。宮川の天井川化と海岸での浜堤の形成によって排水を不良にしている。南部には朝熊ヶ岳(五五三・四メートル)を最高に神ヶ岳(四九二メートル)・島路山(三七六・一メートル)・神路山(二八六メートル)・鷲嶺(五四八メートル)・前山(五二八・八メートル)・鼓ヶ岳(三五五・二メートル)・高倉山(一一五・八メートル)などがあり、北麓を中央構造線が東西に走る。山地の大部分は伊勢神宮林であるため自然植生がよく保存されている。この両者の間に洪積台地が発達し、その末端が開析されて残り、旧伊勢参宮街道もこの尾根を利用し、間山とか長峰と称される。市域の南端は伊勢湾と太平洋両斜面の分水嶺をなし、剣峠を経て南勢町、逢坂峠で磯部町に、東部では堂坂峠で鳥羽市に通じている。
当市は伊勢神宮の所在地であり、内宮の鳥居前の宇治と外宮の鳥居前の山田を中心に発達した。宇治は「伊勢国風土記」逸文に「伊勢の国度会の郡の宇治の村五十鈴の河上に、宮社を造りて太神を斎き奉りき」と記されている。山田は「止由気宮儀式帳」に「度会乃山田乃原、下石根爾宮柱太知立」とあり、山田の原と称された。
〔原始〕
宮川の右岸、元新田遺跡から最近ナイフ形石器が採集され、当地域の文化は旧石器時代までさかのぼる可能性が出てきた。縄文時代では佐八藤波遺跡が著名である。宮川下流の大藪遺跡からは早期・晩期の土器が出土している。弥生時代では宮川左岸の中楽山・野垣内・大藪の各遺跡が確認されている。いずれも竪穴住居や方形周溝墓を有する後期の遺跡で、宮川の右岸ではめぼしい弥生時代の遺跡が存在しないことと対照的である。古墳時代でも宮川流域では前半期の古墳がみられず、県下の雲出川・櫛田川といった河川の流域では古式古墳が築造されていることと比べ、当地域の特徴がうかがえる。古墳築造は古墳時代後半からであり、いずれも横穴式石室を内部主体とする小規模な円墳が多い。そのなかで高倉山古墳は巨大な横穴式石室を有し、神宮の成立となんらかの関連があると古くより指摘されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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伊勢〔市〕
いせ
三重県中東部,志摩半島北西部の市。伊勢平野の南端に位置し,北は伊勢湾に面する。 1889年宇治山田町として町制。 1906年市制。 1955年豊浜村,北浜村,城田村,四郷村を編入し伊勢市に改称。 2005年二見町,小俣町,御薗村の3町村と合体。伊勢神宮の所在地として知られ,市街地は宮川と五十鈴川の間の沖積地に発達。垂仁天皇のとき皇大神宮 (内宮) が宇治に,雄略天皇のとき豊受大神宮 (外宮) が山田にそれぞれ奉置されて以来,神宮信仰の中心地となった。古くは朝廷の神宮であったが,鎌倉時代以降,参宮の風習が民衆の間に広がり,江戸時代には参宮のための伊勢講組織がつくられた。鳥居前には御師の館が立ち並び,商業も栄え,門前町として発展。宇治と山田の間の間の山 (あいのやま) と呼ばれる台地には有名な遊郭の一つの古市が繁栄した。ほかにも朝熊山の金剛証寺,ヤマトヒメノミコト (倭姫命)をまつる倭姫宮,千姫ゆかりの寂照寺など社寺が多い。金剛証寺の伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品,伊勢神宮の玉篇第廿二は国宝。朝熊山経塚群,旧豊宮崎文庫,旧林崎文庫,離宮院跡は国の史跡に指定されている。高向 (たかぶく) に伝わる御頭神事は国指定重要無形民俗文化財。宮川河口の大湊は古くから神宮の外港として栄え,造船業が発達。ほかに電機,紡績,機械器具などの工業がある。神路山など景勝地が多く,市域の大部分が伊勢志摩国立公園に属する。 JR参宮線,近畿日本鉄道鳥羽線,山田線が通じ,伊勢自動車道の終点。国道 23号線,42号線,167号線が通る。面積 208.35km2。人口 12万2765(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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