朝日日本歴史人物事典 「弘世助三郎」の解説
弘世助三郎
生年:天保14.1.3(1843.2.1)
明治期の実業家。近江国(滋賀県)彦根川原町の旧家川添益二郎の次男。のちに彦根藩の御用達商人弘世助市の養子となる。明治12(1879)年第百三十三国立銀行(本店彦根)設立に参画して取締役兼支配人となり,のちに頭取に就任。19年滋賀県会議員となり,同県知事中井弘,同県警部長片岡直温と知己となる。22年有限会社日本生命保険会社(翌23年には日本生命保険株式会社となる)を創設,筆頭取締役となる(社長は鴻池善右衛門,副社長片岡)。ほかに湖東鉄道の敷設計画や大阪鉄道,紀阪鉄道,関西鉄道,浪速鉄道,河陽鉄道,近江鉄道などの創設にも参画した。 日本生命では創業に際して,東大教授藤沢利喜太郎の生命保険論の学理に基づいて日本人による初の生命表を作成し,それによりわが国で最初の科学的な保険料表を完成した。副社長(のち第2代社長)の片岡は近江商人の伝統をひく顧客第一主義を貫き,「馬車馬主義」を唱えて市場開拓のために尽力した。その結果,創業後わずか10年にして保険保有契約高が業界首位となった。弘世は41年には取締役を退任し,六甲山麓住吉において晩年を過ごした。昭和3(1928)年,弘世の長男助太郎(1871~1936)が第3代社長となった。<参考文献>『日本生命百年史』上
(作道洋太郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報