日本歴史地名大系 「御封印野新田」の解説 御封印野新田ごふういんのしんでん 新潟県:西蒲原郡潟東村御封印野新田もと大野(おおの)と称し、洪水の際に鎧(よろい)潟の悪水を流しこみ、潟縁村々の田圃を水害から守る遊水場であった。現在の新(しん)川(もと早通川)の東、卯八郎受(うはちろううけ)および同所から五之上(ごのかみ)に通ずる道路に囲まれた一帯にあたり、五之上受の大字名が残る。寛永四年(一六二七)に長岡藩曾根組が鎧潟からの悪水を防ぐために宝光寺(ほうこうじ)土手を築いたところ、同藩巻組村々から支障が出て訴訟になった。幕府はこの土手を黙認したが、早通(はやどおり)川東側において大野の遊水場を認め、以後その開発を禁止したので、御封印野とよばれるようになった。延享元年(一七四四)三潟周辺三七ヵ村は、漆山(うるしやま)村(現巻町)割元藤右衛門・曾根(そね)村(現西川町)割元多左衛門・中野小屋(なかのこや)村(現新潟市)割元久兵衛が代表となり、御封印野の開発を願い出た。開発は延享四年から寛延二年(一七四九)の間が中心で、一二ヵ村によって行われた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by