長野市にある天台宗および浄土宗の別格本山。山号は定額山。古来,四門四額と称し,東門を定額山善光寺,南門を南命山無量寿寺,北門を北空山雲上寺,西門を不捨山浄土寺とする。本尊は善光寺式阿弥陀三尊で,善光寺如来とも呼ばれる。
草創の年次は明らかにしえないが,《扶桑略記》の仏教渡来の条によると,欽明天皇13年に百済国の聖明王が献じた1尺5寸の阿弥陀仏像と1尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい,この像を推古天皇10年4月8日に秦巨勢大夫に命じ信濃国に送ったと記している。さらに同書は《善光寺本縁起》を引用して,欽明天皇13年百済国より摂津国難波に漂着した弥陀三尊仏が,推古天皇10年信濃国水内(みのち)郡に移ったとしている。また《伊呂波字類抄》には推古天皇10年に信濃国麻績(おみ)村へ如来が移され,さらに41年後の皇極天皇1年に水内に移り善光寺が創建されたと述べている。しかし,これらはいずれも伝説的であって,その是非をにわかに定めることはできない。ただ,境内から出土した瓦は白鳳期のものであり,その創立は7世紀後半と推定されている。
一地方の霊場寺院であった善光寺も,中世以降,浄土教の庶民化と軌を一にして急速に発展した。その反面,10余度におよぶ火災にあい,そのつど再建されているが,記録に現れる最初は1179年(治承3)の焼失である。源頼朝は87年(文治3)信濃の御家人および目代に対し,勧進上人に助力して尽力すべきことを命じた。この命によって91年(建久2)に本堂が完成し,ついで1237年(嘉禎3)10月には五重塔婆の落慶供養が,本寺近江三井寺の別当勝舜出席のもとに営まれている。
この頼朝による善光寺再建への助成は,勧進上人すなわち善光寺聖の勧進活動の成果にほかならない。彼らは種々の説話をもって各地を遊行し,善光寺信仰の勧進教化に努めたが,その説話の一つに善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされたという話がある。善光寺聖はこの説話によって,冥界からの救済を説く善光寺信仰と,四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ,善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させると唱導したのである。それ以後,善光寺は生身弥陀の浄土ともいわれ,全国的総菩提所として納骨,納経,塔婆供養などの死者追善儀礼が行われるようになった。《沙石集》には鎌倉より娘の遺骨を善光寺に送ろうとした父母の話があり,当時善光寺への納骨が庶民の間でも盛んに行われ,そのうえ,遺骨を運ぶ聖の存在したことをうかがわせる。善光寺の周辺から大峯山中腹の花岡平に至る広い範囲から発見された,数千基にもおよぶ中世の小型五輪石塔の存在は,そうした追善儀礼の盛況さを示すものである。
こうした善光寺における浄土信仰の成立と発展が,この地を念仏信仰の一大中心地となしたことは,重源,明遍,証空,生仏,然阿,良慶,良山,親鸞,一遍などの高僧知識をはじめ,多くの念仏者の参詣と隠遁からも明らかである。しかも北条氏による寄進,保護もあって善光寺の念仏は全盛をきわめるにいたった。このように盛んに行われた善光寺の念仏は,融通念仏の系統に入るものであり,それには一遍の善光寺参詣の伝承からも知られるごとく,踊を伴った念仏であった。現在善光寺大勧進には元禄年間(1688-1704)の〈融通念仏仏名帳〉や1661年(寛文1)製作の《融通念仏縁起》が保存され,しかも信者には今なお〈融通念仏血脈譜〉が配布される。一遍は善光寺参詣の後,みずからの行法に善光寺系の踊念仏を取り入れるなど,その影響を多くうけた。一方,善光寺にあっても,一遍や真教の因縁で時衆の一部が,念仏衆と堂衆を兼ねながら当寺にとどまることとなり,ひいては妻戸衆の時宗化がなされた。なおとくに注目すべきは,この期に成立した浄土宗名越派や浄土真宗高田派,あるいは時宗の徒が善光寺信仰を基盤に,それぞれの教線拡大をはかったことである。
ところで《本朝高僧伝》によれば尾張国勢田の僧定尊は,1195年(建久6)に勧進によって集めた浄財をもって等身の善光寺如来の模造仏(分身仏)を鋳造したと伝え,これが現在甲府善光寺の本尊という。以来数多くの模造仏が鋳造され,その総数200余体,うち鎌倉時代の銘をもつものだけでも二十数体が現存している。《明月記》にも嘉禎1年(1235)京の道俗が争って善光寺如来を礼拝したことを記している。このころ各地に〈新善光寺〉が建立され,200余ヵ寺が現存している。戦国時代の善光寺は,武田信玄と上杉謙信による数度の川中島の合戦で荒廃し,本尊はじめ多くの寺宝が甲府に移された。その後,善光寺如来は岐阜,岡崎,吉田,甲府,さらに1597年(慶長2)には豊臣秀吉によって京都大仏殿方広寺に移されたが,98年に42年ぶりに信州へ帰った。その間荒廃していた善光寺も1600年,豊臣秀頼の寄進によって如来堂は再建されたが,これも15年(元和1)焼失した。その後も再建と炎上がくりかえされ,42年(寛永19)の火災のときには再建をめぐって大勧進と大本願の確執もあった。現在の本堂は92年(元禄5)に計画され1700年には江戸幕府が松代藩真田家に普請方を命じ,日光門主の特旨で,江戸谷中感応寺住持慶運が善光寺大勧進職に任ぜられた。彼は翌年からまる5年間,江戸をはじめ日本全国で出開帳を行って再建の費用を集め,総工費2万4577両をついやして,07年(宝永4)ついに本堂が完成した。また善光寺には天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とがあり,大勧進は元来勧進聖の元締めとも,金堂(本堂)勧進の勧進上人の称からくるともいわれ,以前は妙観院と称し権別当職にあり,経衆の首班であった。大勧進は一時,真言宗醍醐寺の法流に属していたが,1643年寛永寺直末となり,善光寺別当と称し善光寺を管理するようになった。大本願は尼寺で開山を尊光上人と伝え,初め三論宗であったが,65世称誉智誓上人の代に浄土宗に改宗したという。この大勧進と大本願は江戸初期以来たびたび訴訟をくりかえし相争ったが,近年は両者並んで善光寺住職となり,本尊は善光寺の所有とし,大勧進,大本願双方の保管ということで落着している。なお寺内は三寺中と称し衆徒,中衆,妻戸衆に分かれており,天台宗清僧の衆徒21院は大勧進配下,浄土宗妻帯僧の中衆15坊(現,14坊)は大本願に,時宗の妻帯僧10坊(現,5坊)は1685年(貞享2),天台宗に改宗し大勧進の配下となっている。なお,中衆15坊から年輪番に務める堂童子を中心とした12月1日から2月1日にかけての行事は民俗学上重視すべきものであり,とくに12月中の二の申の日に行う御越年式は中衆だけの厳重な秘密の行事である。
執筆者:嶋口 儀秋
文化財
現本堂(国宝)は別当慶運が巡国開帳によって浄財を集め,幕府大棟梁甲良豊前入道宗賀の設計によって1707年(宝永4)に完成。正面7間,側面16間で,外陣,中陣,内陣,内々陣に分けた奥行の深い平面構成をとり,内部は高さ10mにも及ぶ高大な空間を設け,また内々陣の床下を巡る胎内くぐりの趣向など,現存する他の本堂建築には類例をみない。屋根の棟がT字形をしたいわゆる撞木(しゆもく)造で,正面は妻入りとしており,四周に裳階を巡らすことともあいまって外観にも独自のものがある。なお三門(1750),経蔵(1759)も重要文化財で,本堂とともに近世大寺院にふさわしい大規模なものである。
執筆者:谷 直樹
善光寺町
信濃国(長野県)水内(みのち)郡の善光寺門前町。現在の長野市街地中心部。門前集落の形成が史料に現れるのは鎌倉時代である。源頼朝や北条氏の保護をうける一方,善光寺聖(ひじり)や時衆の布教で善光寺信仰が全国に広まり,浄土信仰の霊地として巡拝者が集まるようになったことによる。信濃有数の文化・経済の中心地となるにつれて,鎌倉初期には信濃の国衙(こくが)が後庁(ごちよう)(長野市後町)におかれ,南北朝時代には守護所が郊外の平芝(長野市安茂里平柴)に,守護館が漆田(長野市中御所)にそれぞれおかれて,善光寺近傍は政治の中心地ともなった。室町時代には大門町,西之門町,桜小路,後町など門前諸町の名がみえ,定期市がたち,にぎわいをたよって遊女が住み,仏師・絵師や非人・乞食なども集まっていた。しかし,戦国末期の甲越合戦中,武田信玄,上杉謙信が善光寺本尊をはじめ仏像・宝物や僧侶・町人を甲府や越後府中へ移したため,繁栄を奪われて善光寺町はまったくさびれた。
善光寺と門前町がよみがえったのは,1598年(慶長3)流転の本尊が病床の豊臣秀吉により京都方広寺から旧地に送還された以後で,如来堂(本堂)が再興され,1601年徳川家康が寺領1000石を寄進した。14年には北国街道の宿駅が門前に設けられ,江戸時代の善光寺町は宿場町としても発達した。近郊の村々をはじめ北信濃各地から人々が移住し,他国からの来住人も少なくなかった。善光寺町は近世を通じて行政的には村で,寺領4ヵ村のうち長野村,箱清水村が寺の周囲にあり,長野村が門前町・宿場町の中心である。近世前期からここに,大門町,東之門町,西之門町,北之門町がその名称どおりに位置し,大門町に横町が交差し,東之門町と西之門町の南に東町と西町がつらなり,その他大小の小路町が展開している。このうち北之門町は,元禄の善光寺焼失後の寺域拡張でとり払われ,現在の本堂が建てられた。ほかに,大勧進・大本願に直属して善光寺町政に加わらない横沢町,立町があった。中後期に下るにつれて,町は北国街道に沿って大門町から南へのび,松代藩領の妻科村地籍に後町,新田町,石堂町が発達し,越後椎谷藩領の問御所村とともに,表通りの町並みを形づくった。また幕府領の権堂村には,東町から南下して後町の東裏通りに花街ができ,幕末期には水茶屋30~40軒,遊女200人を数えた。善光寺町の人口は幕末期,長野村だけで7000人,全体で1万人余に達し,北信濃最大の都市であった。寺回りには諸国の善光寺講と結んだ院坊,旅籠屋(はたごや),土産物店が並び,各町には北信濃の米穀,酒,麻,木綿,紙,薪炭や越後からの塩,魚が集散して活況を極めた。
寺領としての政治は寺侍と町人身分の大被官が行い,町政には早くから町年寄-庄屋-組頭の組織が成立した。維新後,1870年(明治3)松代藩支配となり,翌年中野県に編入,同年一揆による中野県庁焼亡を機に長野県が成立し,近代の善光寺町は県庁所在都市としても発展する。74年長野村は箱清水村を併せて長野町と改め,97年長野市となった。
執筆者:古川 貞雄