善光寺(読み)ゼンコウジ

デジタル大辞泉 「善光寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんこう‐じ〔ゼンクワウ‐〕【善光寺】

長野市にある単立宗教法人の寺。近世以来、天台宗大勧進浄土宗大本願が管理。山号は定額山。一説に、推古天皇のときに三国伝来一光三尊阿弥陀如来をまつって、皇極天皇元年(642)に堂宇を創建したのに始まると伝える。鎌倉時代に源頼朝が再興、戦国時代には本尊が各地を転々とし、慶長3年(1598)に信濃へ遷座。たびたび火災にあい、現在の本堂(国宝)は宝永4年(1707)のもの。古来、宗派の別を超えて広く信仰を集めている。
山梨県甲府市にある浄土宗の寺。山号は定額山。開創は永禄元年(1558)、開山は鏡空。武田信玄に戦火が及ぶのを恐れ、本尊を甲府に移して建立。甲州善光寺。

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精選版 日本国語大辞典 「善光寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんこう‐じゼンクヮウ‥【善光寺】

  1. [ 一 ] 長野市長野元善町にある寺。単立宗教法人の本堂を天台宗大勧進と浄土宗大本願とが管理している。山号は定額山。皇極天皇元年(六四二)信濃国(長野県)麻績(おうみ)里の本多(田)善光(一説に若麻績東人(わかおみのあずまんど)とも)が堂宇を創建し、三国伝来の一光三尊の阿彌陀仏を安置したのが始まりと伝えられる。古来善光寺参りとして参詣者が絶えない。現在の本堂は江戸中期の代表的建築物で国宝。信濃善光寺。
  2. [ 二 ] 山梨県甲府市善光寺町にある浄土宗の寺。山号は定額山。永祿元年(一五五八)武田信玄が信濃国(長野県)の善光寺から本尊の阿彌陀三尊像を移して開創したと伝えられる。開山は信濃国善光寺大本願の鏡空。のち本尊は尾張、遠江などの国々を転々として、慶長三年(一五九八)信濃の善光寺に帰座。そのため当寺は無住となったが、江戸初期、増上寺の仰誉が再興。新善光寺。甲斐善光寺。甲府善光寺
  3. [ 三 ] 北海道伊達市有珠町にある浄土宗の寺。山号は大臼山。信濃国(長野県)善光寺の本尊の分身を安置する。天長年間(八二四‐八三四)の開創とされ、文化元年(一八〇四)徳川幕府が蝦夷(えぞ)開発のために設けた三官寺の一つとなり、荘海を招請。うす善光寺。

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日本歴史地名大系 「善光寺」の解説

善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]長野市長野 元善町

長野市街地北の高地にあって南面し、山号は定額山。古くから四門四額と称し、東門を定額山善光寺、南門を南命山無量寿むりようじゆ寺、北門を北空山雲上うんじよう寺、西門を不捨山浄土じようど寺とする。近世は天台宗(善光寺大勧進)と浄土宗(善光寺大本願)の二宗の僧侶がこれに奉仕し現在に至る。本尊は銅造阿弥陀如来立像、脇侍は観音・勢至両菩薩、ともに立像で、一光三尊阿弥陀如来である。いずれも重要文化財

〔古代―中世〕

草創の年次を明らかにしない。「扶桑略記」欽明天皇一三年仏教渡来の条に、「一云、同年壬申十月、百済明王献阿弥陀仏像長一尺五寸観音勢至像長一」と記し、これに続けて「或記云、信濃国善光寺阿弥陀仏像、則此仏也、小治田(推古)天皇御時、壬戌年(十年)四月八日、令秦巨勢大夫奉請送信乃国」と記す。更に「善光寺縁起」にいうとして、

<資料は省略されています>

とあって、欽明天皇一三年百済国より渡来した阿弥陀三尊仏が、推古天皇一〇年信濃国水内みのち郡に移ったとしている。また「伊呂波字類抄」には、

<資料は省略されています>

とある。いずれも後年の説に基づいて記されたもので、その是非を定めることはできないが、「伊呂波字類抄」の善光寺以下四三字は文体などから神護景雲二年(七六八)の記文とみられ、その頃既に欽明天皇一三年の渡来仏とする説が行われていたと考えられる。創建については同書の皇極天皇元年説を唯一とするが、寺内から昭和二八年(一九五三)、下水道管敷設の際、平瓦・丸瓦等の布目瓦が多数出土し、鐙瓦は八葉複弁の蓮華文で、子房内の蓮子に覆輪を有し、周縁に外行鋸歯文を陽刻するなど、その形は白鳳時代に比定され、宇瓦は宝相華唐花偏行文を陽刻していて、寺の建立は七世紀後半頃と推定される。「善光寺年代略記」に大同四年(八〇九)五月二三日、天仁元年(一一〇八)二月三日の火災を伝える。

中世以降しばしば炎上があって十余度に及んでいる。治承三年(一一七九)三月二四日(皇年代私記・立川寺年代記・善光寺縁起・参考源平盛衰記・吾妻鏡)をはじめ記録にみえるものは次のとおりである。文永五年(一二六八)三月一四日(一代要記・見聞私記・済北集・皇年代私記・皇年代略記・続史愚抄・善光寺縁起)、正和二年(一三一三)三月二三日(北条九代記・一代要記・皇年代略記・皇年代私記・歴代皇紀・立川寺年代記・善光寺縁起)、応安三年(一三七〇)七月四日(花営三代記・続史愚抄・皇年代私記・善光寺縁起)、応永三四年(一四二七)三月一〇日(立川寺年代記・南方紀伝・後鑑・続史愚抄・年代記残編・善光寺縁起)、文明六年(一四七四)六月四日(尋尊大僧正記・大乗院日記目録・東寺執行日記・歴代皇紀・続史愚抄)、同九年六月二四日(実隆公記)、元和元年(一六一五)三月三〇日(御還座縁起・台徳院御実記)、寛永一九年(一六四二)五月九日(御堂御普請次第・善光寺如来堂再建記・真田家旧記)、元禄一三年(一七〇〇)七月二一日(善光寺如来堂再建記・御堂御普請次第・真田家旧記)


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]甲府市善光寺三丁目

JR身延線善光寺駅の北方、大笠おおがさ山南東麓の高倉たかくら川東岸にある。定額山浄智院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開基は武田信玄(晴信)、開山は信州長野善光寺大本願三七世鏡空。永禄元年(一五五八)長野善光寺より本尊三国伝来の一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)を移して創建されたという。当時は真言宗(「甲斐国志」など)。甲斐への如来奉遷については、弘治元年(一五五五)の第二回の川中島合戦で戦場が善光寺方面に及んだため晴信は本尊をはじめ諸仏・寺宝類を信州禰津ねつ(現長野県東部町)に移した。同三年にも三度目の川中島合戦が起こったので晴信はさらに安全な場所に善光寺如来を移すことを決意、永禄元年に本尊以下を甲府へ移すこととした(甲斐善光寺文書)。同年九月二五日善光寺如来は甲府に到着、一〇月三日には板垣いたがきの地で地引が開始され、翌二年仮屋が完成、二月一六日に入仏式が行われた。同六年四月四日には善光寺の横棟杵立が五味庄運を本願として行われ、同七年三月二二日に棟上、同八年三月二七日に入仏供養が行われた(王代記)。永禄元年、善光寺如来の甲府到来を「国中之貴賤上下男女等之慶」び迎えたという(「塩山向嶽禅菴小年代記」など)。当寺の普請はその後も続けられ、永禄一一年一一月一〇日には金堂建設のため「八幡之天神宮」において材木伐採の許可が住持鏡空に出されている(「武田家印判状」善光寺文書)。元亀二年(一五七一)には甲斐二宮(現御坂町美和神社)での善光寺用材伐採が停止され、二宮の森での一切の伐採が禁じられた(同年六月二日「山県昌景奉書」甲斐二宮神社文書)


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]伊達市有珠町

有珠うす町の北西、有珠湾に臨む丘陵上に位置する浄土宗寺院。大臼山道場どうじよう院と号し、本尊は阿弥陀如来(臼座三尊弥陀金仏)。境内地は善光寺跡として国指定史跡。浄土宗江戸芝増上寺を本寺とした(「寺院沿革誌」など)蝦夷三官寺の一つとしてシャマニとうじゆ(現様似町)・アッケシ国泰こくたい(現厚岸町)とともに一八〇四年(文化元年)に創建。善光寺は等院・国泰寺と異なり、前身となる創建以前の堂舎をもつ。その開創は不明であるが、「新羅之記録」には松前藩主の松前慶広が一六一二年(慶長一二年)に夢のお告げを受け、翌年五月に「善光寺如来之御堂之旧跡」を再建したとの記述があり、一六四〇年代後半にすでに当寺は存在しており、蝦夷地で最も古い由緒をもつ寺院ということになる。善光寺という名称は、平安期に慈覚大師円仁が霊夢に従いウスに安置したという如来像が、一光三尊の信州善光寺如来であったことによるとの伝承が流布しているが(善光寺縁起)、信憑性は薄い。近世段階でウスの地名と臼座の信州善光寺如来とが関連付けられての名称であるとする説(日本仏教の北限)が妥当であろう。この如来堂は常駐の住僧こそ伴わなかったものの、一七世紀以来、西蝦夷地オオタ(現大成町)の権現窟とともに、蝦夷地における六十六部など廻国聖の巡礼地として参籠者を集めてきた(北海道と円空)


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]宇佐市下時枝

下時枝しもときえだの北部にある。梵天山と号し、浄土宗。本堂には本尊である阿弥陀如来を中尊とした一光三尊形式(善光寺式)の三尊像を祀る。豊前善光寺・芝原しばはら善光寺ともいわれ、長野市の善光寺(信濃善光寺)、甲府市の善光寺(甲州善光寺)とともに日本三善光寺の一とされる。伝承によると、九州に下向した空也が天徳二年(九五八)八幡宇佐宮の託宣により芝原の地に一宇を建立したのが草創という。初め天台宗であったが、南北朝期頃に時宗に転じたという(「宇佐郡誌」など)。宝永三年(一七〇六)現宗派となり、京都知恩院直末になった(四日市村年代記)。正暦四年(九九三)に一条天皇が永世天下護持の勅願所としたと伝え、建長二年(一二五〇)には本堂の再建がなった。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]南関町小原 小山

小原こばる集落の北、小原古城こばるこじよう山の南麓に位置する。大慈山と号し、曹洞宗。本尊は観世音菩薩、光背に寛文元年(一六六一)の再興銘と天長三年(八二六)の追銘がある。寺伝では坂上田村麻呂の供養のために同二年に創建、坂上山清水寺と号する真言宗寺院であったという。「国誌」によると東明慧日が元応年中(一三一九―二一)に当地を訪れ庵を開き、禅宗に改め大慈山禅光寺と称したといい、応仁年中(一四六七―六九)に入寺した甚能の頃に檀那の臼間野庄荘司善郷が観音の霊夢を感じ、大字豊永とよなが古野ふるのの地に八間四方の本堂をはじめ七堂伽藍を再興、善郷の一字をとって善光寺と改めたという。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]福知山市字多保市

多保市とおのいちの北方山麓、大池おおいけの西にある。山号大野山、曹洞宗、本尊釈迦如来。

「丹波志」に「曹洞宗知識地 福智山久昌寺末寺 開山実岩和尚 慶長二年建立(中略)本ト長田村ニ建、旧跡有、中古移此所ト云」とあり、同書古跡の部には「大野山善光寺旧地 長田村 此寺今ハ多保市村ニ在、古一村ナリ、古長田村植松ト云所ノ東ノ野ニ在、于今善光寺屋敷ト云」とみえる。

「天田郡志資料」は、寺伝として次のように述べる。弘仁二年(八一一)弘法大師が長田おさだ村の裏野に七堂伽藍を建立、天正七年(一五七九)兵火に焼かれ、諸堂残らず滅んだ。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]川口市舟戸町

荒川の川口渡の北に位置し、現在は荒川河川敷内にある。平等山阿弥陀院と号し、真言宗智山派。本尊は一光三尊阿弥陀如来。開山定尊は尾張国熱田あつた(現愛知県名古屋市熱田区)の住人南条経郷の三男と伝え、建久五年(一一九四)夏長野善光寺の阿弥陀如来の霊告により諸国を勧進。翌年三尊像を鋳造。その後諸国を巡歴し現在地に堂宇を建立、像を安置し、承元四年(一二一〇)に没したという(「川口善光寺縁起」埼玉叢書)。その後は横曾根吉祥よこぞねきちじよう院と真頂しんちよう(現東京都北区)の僧を一人ずつ置き、やがて東明とうみよう院と西善せいぜん院が別当寺となった(風土記稿)


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]米沢市万世町堂森

堂森どうもり山の南東斜面にある。松心山と号し、真言宗。本尊大日如来。通称堂森善光寺。延文二年(一三五七)一一月上旬の年紀のある山寺立石やまでらりつしやく(現山形市)蔵の大般若経写経奥書中に「長井之荘堂森今善光寺」とみえる。また同年一二月六日の写経奥書には「新善光寺」ともみえる。長井氏三代時秀が建立し、伊達晴宗娘益穂姫が中興したと伝える。なお「米沢事跡考」によれば大同三年(八〇八)の創建で、その後、益王姫が再興したという。また別伝では伊達晴宗の娘で屋代やしろ高畠たかはた(現東置賜郡高畠町)城主小簗川泥蟠室が、天正六年(一五七八)父のため修造を加えたともいい、同書は阿弥陀如来(見返り弥陀)を本尊とする堂森如来堂の別当寺であるとする。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]新穂村瓜生屋

新穂川沿いにある。高野山真言宗、不捨山と号し、本尊は一光三尊の善光寺如来。古くは浄土宗であったと思われる。開基は弘仁二年(八一一)とも延喜一一年(九一一)とも伝える。もとは吉岡よしおか(現真野町)の善光寺跡にあったとの説がある。潟上の牛尾かたがみのうしお神社蔵の薬師如来像台座墨書銘に応永一二年(一四〇五)三月日紀銘で「善光寺住侶対馬公」「栄範公」とある善光寺は当寺をさすか不詳。天正一七年(一五八九)火災で全焼。文禄元年(一五九二)再建。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]東区筒井町三丁目

七ヶ寺(高岳院・善光寺・養蓮寺・普蔵寺・東漸寺・遍照院・円通寺)門前を形成する寺院の一つ。定覚山と号し、浄土宗。本尊は誉田善光の作と伝える木造阿弥陀如来で、左右に善光夫婦の像をも安置する。創建年代は明らかでないが、もと葉栗郡黒田くろだ(現木曾川町)にあり、中興の開山覚山は元和三年(一六一七)に没している。戦国のとき、乱を避けて那古野なごや村の天王社付近に移ったが、慶長一六年(一六一一)またこの地に転じ第二次大戦後現在地に変わった。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]広見町小松

小松こまつから延川のぶかわに至る道路の左の山側にある。医王山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。

薬師如来像の正平一三年(一三五八)七月七日付の胎内銘に「大檀越、坂上四郎左衛門有重、大仏子、肥後法眼覚朝 小仏子朝圜」と記されている(吉田古記)。仏師覚朝らの製作した薬師如来像を、坂上有重が善光禅寺に納めたことがわかる。


善光寺
ぜんこうじ

[現在地名]旭川市五条通

浄土宗。華厳山と号する。本尊一光三尊阿弥陀如来。明治二八年(一八九五)有志が協議、旭川市街予定地の川添町かわぞいちよう三丁目左一号(現在地)に浄土宗教会所を設立。

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改訂新版 世界大百科事典 「善光寺」の意味・わかりやすい解説

善光寺 (ぜんこうじ)

長野市にある天台宗および浄土宗の別格本山。山号は定額山。古来,四門四額と称し,東門を定額山善光寺,南門を南命山無量寿寺,北門を北空山雲上寺,西門を不捨山浄土寺とする。本尊は善光寺式阿弥陀三尊で,善光寺如来とも呼ばれる。

 草創の年次は明らかにしえないが,《扶桑略記》の仏教渡来の条によると,欽明天皇13年に百済国の聖明王が献じた1尺5寸の阿弥陀仏像と1尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい,この像を推古天皇10年4月8日に秦巨勢大夫に命じ信濃国に送ったと記している。さらに同書は《善光寺本縁起》を引用して,欽明天皇13年百済国より摂津国難波に漂着した弥陀三尊仏が,推古天皇10年信濃国水内(みのち)郡に移ったとしている。また《伊呂波字類抄》には推古天皇10年に信濃国麻績(おみ)村へ如来が移され,さらに41年後の皇極天皇1年に水内に移り善光寺が創建されたと述べている。しかし,これらはいずれも伝説的であって,その是非をにわかに定めることはできない。ただ,境内から出土した瓦は白鳳期のものであり,その創立は7世紀後半と推定されている。

 一地方の霊場寺院であった善光寺も,中世以降,浄土教の庶民化と軌を一にして急速に発展した。その反面,10余度におよぶ火災にあい,そのつど再建されているが,記録に現れる最初は1179年(治承3)の焼失である。源頼朝は87年(文治3)信濃の御家人および目代に対し,勧進上人に助力して尽力すべきことを命じた。この命によって91年(建久2)に本堂が完成し,ついで1237年(嘉禎3)10月には五重塔婆の落慶供養が,本寺近江三井寺の別当勝舜出席のもとに営まれている。

 この頼朝による善光寺再建への助成は,勧進上人すなわち善光寺聖の勧進活動の成果にほかならない。彼らは種々の説話をもって各地を遊行し,善光寺信仰の勧進教化に努めたが,その説話の一つに善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされたという話がある。善光寺聖はこの説話によって,冥界からの救済を説く善光寺信仰と,四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ,善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させると唱導したのである。それ以後,善光寺は生身弥陀の浄土ともいわれ,全国的総菩提所として納骨,納経,塔婆供養などの死者追善儀礼が行われるようになった。《沙石集》には鎌倉より娘の遺骨を善光寺に送ろうとした父母の話があり,当時善光寺への納骨が庶民の間でも盛んに行われ,そのうえ,遺骨を運ぶ聖の存在したことをうかがわせる。善光寺の周辺から大峯山中腹の花岡平に至る広い範囲から発見された,数千基にもおよぶ中世の小型五輪石塔の存在は,そうした追善儀礼の盛況さを示すものである。

 こうした善光寺における浄土信仰の成立と発展が,この地を念仏信仰の一大中心地となしたことは,重源,明遍,証空,生仏,然阿,良慶,良山,親鸞,一遍などの高僧知識をはじめ,多くの念仏者の参詣と隠遁からも明らかである。しかも北条氏による寄進,保護もあって善光寺の念仏は全盛をきわめるにいたった。このように盛んに行われた善光寺の念仏は,融通念仏の系統に入るものであり,それには一遍の善光寺参詣の伝承からも知られるごとく,踊を伴った念仏であった。現在善光寺大勧進には元禄年間(1688-1704)の〈融通念仏仏名帳〉や1661年(寛文1)製作の《融通念仏縁起》が保存され,しかも信者には今なお〈融通念仏血脈譜〉が配布される。一遍は善光寺参詣の後,みずからの行法に善光寺系の踊念仏を取り入れるなど,その影響を多くうけた。一方,善光寺にあっても,一遍や真教の因縁で時衆の一部が,念仏衆と堂衆を兼ねながら当寺にとどまることとなり,ひいては妻戸衆の時宗化がなされた。なおとくに注目すべきは,この期に成立した浄土宗名越派や浄土真宗高田派,あるいは時宗の徒が善光寺信仰を基盤に,それぞれの教線拡大をはかったことである。

 ところで《本朝高僧伝》によれば尾張国勢田の僧定尊は,1195年(建久6)に勧進によって集めた浄財をもって等身の善光寺如来の模造仏(分身仏)を鋳造したと伝え,これが現在甲府善光寺の本尊という。以来数多くの模造仏が鋳造され,その総数200余体,うち鎌倉時代の銘をもつものだけでも二十数体が現存している。《明月記》にも嘉禎1年(1235)京の道俗が争って善光寺如来を礼拝したことを記している。このころ各地に〈新善光寺〉が建立され,200余ヵ寺が現存している。戦国時代の善光寺は,武田信玄と上杉謙信による数度の川中島の合戦で荒廃し,本尊はじめ多くの寺宝が甲府に移された。その後,善光寺如来は岐阜,岡崎,吉田,甲府,さらに1597年(慶長2)には豊臣秀吉によって京都大仏殿方広寺に移されたが,98年に42年ぶりに信州へ帰った。その間荒廃していた善光寺も1600年,豊臣秀頼の寄進によって如来堂は再建されたが,これも15年(元和1)焼失した。その後も再建と炎上がくりかえされ,42年(寛永19)の火災のときには再建をめぐって大勧進と大本願の確執もあった。現在の本堂は92年(元禄5)に計画され1700年には江戸幕府が松代藩真田家に普請方を命じ,日光門主の特旨で,江戸谷中感応寺住持慶運が善光寺大勧進職に任ぜられた。彼は翌年からまる5年間,江戸をはじめ日本全国で出開帳を行って再建の費用を集め,総工費2万4577両をついやして,07年(宝永4)ついに本堂が完成した。また善光寺には天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とがあり,大勧進は元来勧進聖の元締めとも,金堂(本堂)勧進の勧進上人の称からくるともいわれ,以前は妙観院と称し権別当職にあり,経衆の首班であった。大勧進は一時,真言宗醍醐寺の法流に属していたが,1643年寛永寺直末となり,善光寺別当と称し善光寺を管理するようになった。大本願は尼寺で開山を尊光上人と伝え,初め三論宗であったが,65世称誉智誓上人の代に浄土宗に改宗したという。この大勧進と大本願は江戸初期以来たびたび訴訟をくりかえし相争ったが,近年は両者並んで善光寺住職となり,本尊は善光寺の所有とし,大勧進,大本願双方の保管ということで落着している。なお寺内は三寺中と称し衆徒,中衆,妻戸衆に分かれており,天台宗清僧の衆徒21院は大勧進配下,浄土宗妻帯僧の中衆15坊(現,14坊)は大本願に,時宗の妻帯僧10坊(現,5坊)は1685年(貞享2),天台宗に改宗し大勧進の配下となっている。なお,中衆15坊から年輪番に務める堂童子を中心とした12月1日から2月1日にかけての行事は民俗学上重視すべきものであり,とくに12月中の二の申の日に行う御越年式は中衆だけの厳重な秘密の行事である。
執筆者:

現本堂(国宝)は別当慶運が巡国開帳によって浄財を集め,幕府大棟梁甲良豊前入道宗賀の設計によって1707年(宝永4)に完成。正面7間,側面16間で,外陣,中陣,内陣,内々陣に分けた奥行の深い平面構成をとり,内部は高さ10mにも及ぶ高大な空間を設け,また内々陣の床下を巡る胎内くぐりの趣向など,現存する他の本堂建築には類例をみない。屋根の棟がT字形をしたいわゆる撞木(しゆもく)造で,正面は妻入りとしており,四周に裳階を巡らすことともあいまって外観にも独自のものがある。なお三門(1750),経蔵(1759)も重要文化財で,本堂とともに近世大寺院にふさわしい大規模なものである。
執筆者:

信濃国(長野県)水内(みのち)郡の善光寺門前町。現在の長野市街地中心部。門前集落の形成が史料に現れるのは鎌倉時代である。源頼朝や北条氏の保護をうける一方,善光寺聖(ひじり)や時衆の布教で善光寺信仰が全国に広まり,浄土信仰の霊地として巡拝者が集まるようになったことによる。信濃有数の文化・経済の中心地となるにつれて,鎌倉初期には信濃の国衙(こくが)が後庁(ごちよう)(長野市後町)におかれ,南北朝時代には守護所が郊外の平芝(長野市安茂里平柴)に,守護館が漆田(長野市中御所)にそれぞれおかれて,善光寺近傍は政治の中心地ともなった。室町時代には大門町,西之門町,桜小路,後町など門前諸町の名がみえ,定期市がたち,にぎわいをたよって遊女が住み,仏師・絵師や非人・乞食なども集まっていた。しかし,戦国末期の甲越合戦中,武田信玄,上杉謙信が善光寺本尊をはじめ仏像・宝物や僧侶・町人を甲府や越後府中へ移したため,繁栄を奪われて善光寺町はまったくさびれた。

 善光寺と門前町がよみがえったのは,1598年(慶長3)流転の本尊が病床の豊臣秀吉により京都方広寺から旧地に送還された以後で,如来堂(本堂)が再興され,1601年徳川家康が寺領1000石を寄進した。14年には北国街道の宿駅が門前に設けられ,江戸時代の善光寺町は宿場町としても発達した。近郊の村々をはじめ北信濃各地から人々が移住し,他国からの来住人も少なくなかった。善光寺町は近世を通じて行政的には村で,寺領4ヵ村のうち長野村,箱清水村が寺の周囲にあり,長野村が門前町・宿場町の中心である。近世前期からここに,大門町,東之門町,西之門町,北之門町がその名称どおりに位置し,大門町に横町が交差し,東之門町と西之門町の南に東町と西町がつらなり,その他大小の小路町が展開している。このうち北之門町は,元禄の善光寺焼失後の寺域拡張でとり払われ,現在の本堂が建てられた。ほかに,大勧進・大本願に直属して善光寺町政に加わらない横沢町,立町があった。中後期に下るにつれて,町は北国街道に沿って大門町から南へのび,松代藩領の妻科村地籍に後町,新田町,石堂町が発達し,越後椎谷藩領の問御所村とともに,表通りの町並みを形づくった。また幕府領の権堂村には,東町から南下して後町の東裏通りに花街ができ,幕末期には水茶屋30~40軒,遊女200人を数えた。善光寺町の人口は幕末期,長野村だけで7000人,全体で1万人余に達し,北信濃最大の都市であった。寺回りには諸国の善光寺講と結んだ院坊,旅籠屋(はたごや),土産物店が並び,各町には北信濃の米穀,酒,麻,木綿,紙,薪炭や越後からの塩,魚が集散して活況を極めた。

 寺領としての政治は寺侍と町人身分の大被官が行い,町政には早くから町年寄-庄屋-組頭の組織が成立した。維新後,1870年(明治3)松代藩支配となり,翌年中野県に編入,同年一揆による中野県庁焼亡を機に長野県が成立し,近代の善光寺町は県庁所在都市としても発展する。74年長野村は箱清水村を併せて長野町と改め,97年長野市となった。
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善光寺 (ぜんこうじ)

山梨県甲府市にある寺。開山は信州善光寺大本願37代鏡空上人,開基を武田信玄という。山号は定額山といい,俗に甲斐善光寺とか甲府善光寺と呼ばれる。信玄は川中島での上杉謙信との決戦を前に,信州善光寺の本尊を,信濃国小県郡禰津村,甲州上条村日輪法城寺を経て1559年(永禄2)に現在地の仮屋に移し,如来堂の造営にとりかかった。当寺に現存する永禄7年(1564)の棟札には,このときの大勧進は遠州厳水寺源瑜,大本願に鏡空上人,勧進聖として浄雲,道空,道賀らの名が記されている。この堂は64年上棟,翌年に如来の金堂入仏落慶供養を営み,ついで72年(元亀3)に本坊3院15庵83坊の荘厳を修し,信州善光寺から別当栗田氏,大勧進,大本願および経衆や中衆の僧も多く甲府へ移り,その他の霊仏,寺宝などすべて移し終わって,供飯大法会が行われた。江戸時代にも領主の保護があって栄え,1685年(貞享2)に一国門中の触頭となり,寛保年間(1741-44)には金堂へ葵紋が許された。また享保年間(1716-36)の金堂大破に際しては,柳沢吉保の命で修復がなされたが,このころ境内1万3000坪,塔頭4軒,番僧15軒,平坊主72軒,寺領30石余を有した。なお,当寺の本尊は武田氏滅亡後各地に転じたのち,信州に帰り,定尊作と伝える建久6年(1195)の銘をもつ等身大の善光寺如来が本尊としてまつられている。
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善光寺 (ぜんこうじ)

北海道伊達市にある浄土宗の寺。大臼山と号す。寺伝には慈覚大師の草創とするが,1613年(慶長18),松前慶広が祈願所として小堂を建立したのが当寺の始まりである。1804年(文化1),江戸幕府の蝦夷三官寺の一つに指定され,八雲から白老地方に布教した。寺宝として,円空作の観音像,隠れキリシタンの遺物の織部灯籠,2代住職鸞州のアイヌ語の《後世の枝折》,3代弁瑞の念仏踊の指導書たる《子引歌》をはじめ多くの文化財がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「善光寺」の意味・わかりやすい解説

善光寺(長野市)
ぜんこうじ

長野市元善(もとよし)町にある寺。単立宗教法人で、現在は、天台宗大本山の大勧進(僧寺)、浄土宗大本山大本願(尼寺)と一山寺院(いっさんじいん)39か寺によって管理運営され、大勧進住職と大本願住職がともに善光寺住職を兼務する。山号は定額(じょうがく)山。「信濃(しなの)の善光寺」の名で親しまれ、全国から宗派の別を超えて参詣(さんけい)者が集まる阿弥陀(あみだ)信仰の霊場。642年(皇極天皇1)の創建と伝えるが、草創に関してはいまだ定説をみない。文献上に善光寺が現れるのは平安時代後期からで、そのころは三井寺(みいでら)の末寺であったことが知られる。また近世になると寛永寺の末寺となっていた。

 本尊は、一つの舟型後光の中に、中尊阿弥陀如来(にょらい)と、六角形の宝冠を頂く両脇侍(きょうじ)像(観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至(せいし)菩薩)が安置された典型的な一光三尊仏で、善光寺如来ともいわれるが、秘仏となっておりその姿を拝することはできない。このため本尊の分身仏とされる鎌倉時代の模刻像、前立(まえだち)本尊(重文)が、数え年で7年に一度開帳される。後世、広く流布した『善光寺縁起』によれば、インドの月蓋(がつがい)長者が娘の病気治癒を阿弥陀如来に祈願してかなえられた御礼に、竜宮城から得た閻浮檀金(えんぶだごん)の金砂でつくったものという。552年(欽明天皇13)百済(くだら)の聖明王より朝廷に献上され、初め宮中に安置されていたが、悪疫流行の禍根とみなされ、また物部(もののべ)・蘇我(そが)氏の争いで難波(なにわ)の堀江に投ぜられたのを、推古(すいこ)天皇(在位592~628)の代に信濃国の若麻績(わかおうみ)東人(後の本田善光(よしみつ))が拾い上げ、持ち帰って草堂に安置したという。642年勅命によって水内(みずち)郡芋井里(いもいさと)に伽藍(がらん)を建立してこの像を祀(まっ)ったのが善光寺の起源と伝えられている。

 鎌倉時代には源頼朝(よりとも)が再興に力を尽くし、堂舎も整えられて隆盛となり、さらに善光寺式一光三尊仏の模刻が流行したことにより善光寺信仰も広まっていった。しかし戦国時代には本尊仏の移動は激しく、1558年(永禄1)武田信玄(しんげん)によって甲府の善光寺へ、82年(天正10)織田信長によって岐阜へ、ついで愛知の甚目(じもく)寺へ、徳川家康によって静岡へ、そして甲府へ、豊臣(とよとみ)秀吉によって京都方広寺へと移され、ようやく1598年(慶長3)に至って信濃の善光寺へ戻された。1601年には徳川家康から寺領1000石が寄進されている。頼朝が再建して以来十数回火災にあったといわれるが、現在の本堂(国宝)は松代(まつしろ)藩主真田(さなだ)家が幕府の命を受けて1707年(宝永4)に完成したもの。山門(三門)、経蔵(きょうぞう)は国の重要文化財に指定されている。

 境内は広く、大勧進と大本願の二大本山のほか、天台宗一山寺院25院、浄土宗一山寺院14坊が建ち並び、仁王門から山門に所属する山内の寺院37か寺が建ち並び、二王門から三門に至る約100メートルの仲見世通りには土産(みやげ)物店や仏具店が並ぶ。善光寺詣(もう)での特色に、瑠璃(るり)段下の暗闇(くらやみ)の廊下を手探りで一巡する「お戒壇めぐり」、大勧進・大本願両住職が本堂へ昇下堂する際に数珠(じゅず)で参詣者の頭をなでる「お数珠頂戴」などがある。

[大鹿実秋]

『坂井衡平著『善光寺史』(1969・東京美術社)』



善光寺(山梨県)
ぜんこうじ

山梨県甲府市善光寺町にある浄土宗の寺。定額山(じょうがくざん)浄智(じょうち)院と号する。本尊は阿弥陀(あみだ)三尊像。甲府善光寺ともいう。長野善光寺第37世鏡空(きょうくう)を開山とし、1558年(永禄1)の開創。開基は武田信玄(しんげん)。信玄は長野善光寺の本尊を兵火から守るため、甲府に善光寺を建ててこれを移した。あるいは、村上義清(よしきよ)との戦いで長野善光寺の堂宇が兵火にかかったとき、本尊が朝日山に飛び移り無事であったので、この奇瑞(きずい)に打たれた信玄が本尊を甲府に迎えたともいう。本尊はその後岐阜に移されたのち、尾張(おわり)(愛知県)甚目(じもく)寺、遠江(とおとうみ)(静岡県)鴨江(かもえ)寺、京都方広寺などに奉遷され、1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉の死去により長野へ戻された。一方、甲府善光寺の大本願上人(しょうにん)以下が信濃(しなの)に帰座したため寺勢は衰えたが、増上寺の仰誉(ぎょうよ)が中興。1796年(寛政8)再興された山門と金堂は国重要文化財で、長野善光寺のそれを模している。また領主浅野氏が奉納した一光三尊の金銅仏、および木造阿弥陀三尊像二組は国重要文化財。

[清水 乞]


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百科事典マイペディア 「善光寺」の意味・わかりやすい解説

善光寺【ぜんこうじ】

長野市元善町にある単立の寺。近世以来天台宗の大勧進(だいかんじん)と浄土宗の大本願(だいほんがん)が寺務を執行。創建については諸説あるが,欽明天皇の時に百済の聖明王が献じた阿弥陀三尊仏(本尊,重要文化財)を,602年難波(なにわ)から信濃に移して開創,641年堂宇を建立したと伝える。古くから宗派を越えて信仰を集め,浄土教の庶民化に伴い急速に発展した。現存の国宝の本堂は元禄年間(1688年―1704年)の建立で,礼堂,外陣,内陣,内々陣をもつ奥行の深い重層の大建築。平面がT字形なので撞木(しゅもく)造と呼ばれる。ほか山門・経蔵・釈迦堂などの重要文化財がある。寺内には塔頭(たっちゅう)が多く,衆徒・中衆・妻戸の3種に分かれる。
→関連項目石童丸一遍開帳信濃国信生法師日記善光寺式三尊像長野[市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「善光寺」の解説

善光寺
ぜんこうじ

長野市元善町にある寺。定額(じょうがく)山と号す。創建の時期・由来は伝説につつまれ不明であるが,7世紀後半には建立されていたと推測され,百済伝来の一光三尊の阿弥陀仏を安置した堂に始まるという。近世以来,この堂を天台宗の大勧進と浄土宗の大本願の2宗の僧侶が護持する。鎌倉時代には北条氏の保護をうけて全盛をきわめ,親鸞・一遍をはじめ名僧が参詣した。戦国期には,武田信玄と上杉謙信の川中島の戦によって荒廃し,弘治年間には本尊が甲府に移される事態も生じたが,1598年(慶長3)に戻った。秘仏の本尊のほか,国宝の本堂,重文の山門・経蔵・前立本尊などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「善光寺」の意味・わかりやすい解説

善光寺
ぜんこうじ

長野市にある天台宗と浄土宗に属する寺。山号は定額 (じょうがく) 山。推古天皇の頃,本田善光が,百済から伝えられた阿弥陀如来を祀って建立したと伝えられる。戦国時代には,兵火を避けて本尊が東海,近畿の各地を流転。たびたび火災で焼失したが,源頼朝,北条泰時をはじめ多くの為政者の帰依を受け,その都度再建。現在の本堂は,礼堂,外陣,内陣,内内陣をもつ重層の大建築で,江戸時代元禄年間の代表的建造物で国宝。境内には山門,仁王門,経蔵,忠霊殿があり,付近に院,坊が多く,門前町を形成して,長野市発展の基礎をなした。善光寺如来信仰に支えられており,各地に新善光寺がある。

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デジタル大辞泉プラス 「善光寺」の解説

善光寺〔長野県〕

長野県長野市にある単立宗教法人の寺院。山号は定額山。「信濃善光寺」ともいう。近世以来、天台宗大勧進と浄土宗大本願が共同で住職を務める。創建年不詳だが、平安時代の後期から文献に名が見られる。江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」と言われた阿弥陀信仰の霊場で、現在も多くの参拝客が集まる。本堂は国宝、山門、経蔵は国の重要文化財に指定。

善光寺〔大分県〕

大分県宇佐市にある浄土宗の寺院。958年、空海が芝原に建立した一宇が起源と伝わる。本尊は一光三尊善光寺如来三尊。本堂は国の重要文化財に指定。「豊前善光寺」「芝原善光寺」ともいう。

善光寺〔北海道〕

北海道伊達市にある浄土宗の寺院。「有珠善光寺」ともする。山号は大臼山、本尊は阿弥陀如来。江戸幕府が指定した蝦夷三官寺のひとつ。境内は国指定史跡。桜の名所。

善光寺〔茨城県〕

茨城県石岡市にある寺院。楼門は室町時代後期に建てられたとされ、国の重要文化財に指定されている。現在、本堂は半壊し立ち入り禁止。

善光寺〔愛媛県〕

愛媛県北宇和郡鬼北町にある曹洞宗の寺院。薬師堂、薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「善光寺」の解説

善光寺
ぜんこうじ

長野市元善町にある天台・浄土両宗の寺
その本尊は百済伝来の阿弥陀如来で,戦国時代より各地を転々とし,1598年に現在の地に帰った。天下の霊場として諸人の信仰を集め,善光寺参りが行われて,門前町長野が発達した。

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事典 日本の地域遺産 「善光寺」の解説

善光寺

(長野県長野市長野元善町491-イ)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「善光寺」の解説

善光寺
(通称)
ぜんこうじ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
善光寺開帳
初演
元禄7(大坂・岩井半四郎座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

事典・日本の観光資源 「善光寺」の解説

善光寺

(長野県長野市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

善光寺

(兵庫県神戸市灘区)
灘百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の善光寺の言及

【伊達[市]】より

…古くは伊達紋鼈(もんべつ)と呼ばれた。幕府直轄時代には有珠会所が置かれ,蝦夷三官寺の一つ,有珠の善光寺が建立された。本格的な開発は仙台支藩の亘理(わたり)藩伊達邦成家中により行われ,1870年(明治3)から81年までに約2700人が入地した。…

※「善光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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