日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川和子」の意味・わかりやすい解説
徳川和子
とくがわかずこ
(1607―1678)
御水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう)。東福門院(とうふくもんいん)と称した。父は2代将軍徳川秀忠(ひでただ)、母は浅井長政(あさいながまさ)の女(むすめ)徳子(崇源院)。和子の祖父徳川家康は、幕府の基礎が固まってくると、孫女を入内(じゅだい)させようと後陽成(ごようぜい)天皇に内意を伝えた。しかし天皇は先例がないと許可しなかったが、再三の要求に内諾を与えた。後水尾天皇即位後の1614年(慶長19)、勅使を派遣して和子入内を正式に幕府に伝えたが、その後大坂の陣、家康・後陽成上皇の死と続いたため入内は延期された。そして19年(元和5)に入内と決まったが、天皇寵愛(ちょうあい)の女官に子供が生まれたことが秀忠の耳に入り、ふたたび延期され、翌年ようやく14歳で入内して25歳の後水尾天皇の女御(にょうご)となった。23年興子(おきこ)内親王が誕生し、翌年(寛永1)には久しく絶えていた中宮にたてられ、さらに天皇の譲位により興子内親王が29年践祚(せんそ)して明正(めいしょう)天皇となったため、和子は東福門院と称された。天皇との間には明正天皇のほか2男3女があった。和子入内は徳川将軍家の権威を高めるとともに、よりいっそう朝廷が幕府の統制下に収められる契機となった。入内に伴って幕府から御附武家が派遣されたのもその一例である。
[上野秀治]