→「こうごう(皇后)」の語誌
中宮三社(中宮・佐羅宮・別宮)の中核をなし、白山七社を構成した。吉野谷村中宮に所在する
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平安時代の令の注釈書《令義解》は皇后の居所である皇后宮の別称であるとし,したがって太皇太后宮,皇太后宮もまた中宮と称したのだとする。このことから中宮は皇后,皇太后,太皇太后の別称ともみられるが,公式令では皇后などが平出(へいしゆつ)すべき称であるのに対して,中宮は闕字(けつじ)すべき称であり,それだけ略称的な呼称であったかもしれない。《続日本紀》では中宮を個人と居所との両様につかっており,前者には藤原宮子,高野新笠,当麻山背等が相当する。したがって皇太夫人の別称であって,皇后の別称ではない。後者は平城宮内にあって,推定第1次内裏にあったとする所説と,推定第2次内裏にあったとする所説とがある。また後者が前の中宮個人の居所であるかどうかの確証はない。平安中期にいたって中宮を皇后の別称として通用するようになったが,さらに一条天皇の彰子と定子のときに二后併立の制度がさだめられたため,中宮と皇后とは区別されることになった。
→皇后
執筆者:鬼頭 清明
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皇后の居所の称。転じて皇后の別称となる。令(りょう)制では太皇太后宮、皇太后宮を加えた三后の称ともされたが、聖武(しょうむ)天皇の生母藤原宮子(みやこ)が皇太夫人としてとくに中宮職(しき)を付置され、中宮とよばれてからは、奈良時代、平安前期を通じて、もっぱら皇太夫人の称となった。しかし皇太夫人は醍醐(だいご)天皇の養母藤原温子(おんし)を最後として絶え、同天皇の皇后藤原穏子(おんし)には、令制どおり、太皇太后で崩ずるまで一貫して中宮職が奉事し、中宮ともよばれた。ついで一条(いちじょう)朝(986~1011)に二皇后併立の例が開かれるに及び、それぞれ皇后宮職と中宮職が付置され、皇后宮(略して皇后)、中宮と称して区別されたが、明治以後、中宮職の廃止とともに、中宮の称も廃絶した。
[橋本義彦]
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皇后の居所の意。大宝令では闕字の扱いをうけ,さらに太皇太后・皇太后や太皇太妃・太皇太夫人・皇太妃・皇太夫人までも含むキサキ,およびその居所の総称となった。また桓武天皇の生母で皇太夫人となった高野新笠(にいがさ)が中宮職を付置され中宮と称されてから,中宮職を付置された皇太夫人のなかには中宮と称された例もある。その後,一条天皇のときに二后並立制が成立すると,皇后宮職を付置された皇后を皇后と称し,中宮職を付置された皇后を中宮と称するのが例となった。なお「続日本紀」には殿舎域としての中宮がみられるが,宮内の位置にもとづく場合と中宮の居所にもとづく場合が考えられ,前者の考えによって中央区画の大極殿院に比定する説がある。
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…中国人は地上における空間分割をまた天に投影して天を区分したのである。前2世紀ころの漢代では,天は北極を中心に,そこからの距離が36度の圏内にある決して沈まない星座を中官(ないしは中宮),その外側を囲み季節によって見え隠れする星座を外官(外宮)とし,外官をさらに四分割するのである。《史記》の東宮,南宮,西宮,北宮,のちの東方宿,南方宿,西方宿,北方宿がそれである。…
…令制官司の一つ。中務省に所属し,中宮の伝達命令の執行機関として設置された。皇后宮職の例からみて,中宮の家政的な実務も執行した可能性がある。…
…古代,皇太子および中宮に対する資養のために諸国におかれた経済制度。令制では臣下に対する封戸(ふこ)と同様のものらしく,《延喜式》では〈東宮湯沐二千戸〉とみえ,令制では〈中宮湯沐二千戸〉がみえる。…
※「中宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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