現島根県域の隠岐諸島を除く東半を占める。東は伯耆国、南は備後国、西は石見国に接し、北は日本海に面して形状は方形に近い。島根半島の南側に東の中海、西の宍道湖という二つの汽水湖があり、両湖の間の現松江市域を中心とする松江平野(大橋川南部は意宇平野ともいう)、宍道湖西方の出雲平野(簸川平野)が穀倉地帯を形成している。国名については平田市鰐淵寺の銅造観音菩薩立像の台座に「壬申年」(持統天皇六年に比定)五月「出雲国若倭部臣徳太理」が造立したとある。「出雲国風土記」巻頭に「出雲と号くる所以は、八束水臣津野命詔りたまひしく「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲と云ふ」とある。同書意宇郡条には八束水臣津野命による国引きの神話が載り、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小く作らせり。故、作り縫はな」と命が詔したと記される。これにより四回にわたる国引きが行われた。「古事記」上巻の原文に「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐」、「日本書紀」神代上には「伊弩毛」とみえる。
古代律令制前の大和政権と出雲地域との関係の一面を示す伝承が「日本書紀」に載る。同書崇神天皇六〇年七月一四日条によれば、朝廷が出雲大神の宮にある武日照命の神宝の献上を命じるが、神宝を管理していた「出雲臣之遠祖」出雲振根が留守であったため、その弟の飯入根が神宝を献上する。筑紫国から帰った振根はこれを聞き、年月を経たのち飯入根を謀殺した。そのため朝廷は吉備津彦らを派遣し振根を謀殺し、この事件により出雲大神の祭祀が中断したという。のち丹波
「日本書紀」垂仁天皇七年七月七日条に出雲国の勇士野見宿禰が上京して当摩蹶速と相撲した記事がみえ、同書同二六年八月三日条には垂仁天皇の命により物部十千根大連が出雲国に派遣され、神宝を検校して十千根が管掌することになったとの伝承が載る。さらに同書同三二年七月六日条によれば、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の死去に際し、野見宿禰が出雲国の土師一〇〇人を召喚し、生きた人間を殉葬することに替え、これらの土師がつくった埴輪を陵墓に埋めるよう上申している。この記事は、「続日本紀」天応元年(七八一)六月二五日条などにも引かれている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。雲州。現在の島根県の東部にあたる。
山陰道に属する上国(《延喜式》)。当初の地域的統一は,簸(ひ)ノ川(斐伊(ひい)川)・神門(神戸)(かんど)川下流域に諸首長が併立した出雲西部よりも,意宇(おう)平野の首長が卓越的に台頭した出雲東部を中心にすすんだ。すなわち,東部には4世紀末から5世紀の方墳や前方後方墳が濃密な分布を示す特色ある古墳文化が発達し,《出雲国風土記》にだけみえる国引き神話もここではぐくまれた。この意宇の王が,出雲西部に及んでいた吉備勢力の衰退に乗じ,5世紀末~6世紀前半には出雲全域にわたる地域国家を形成した。しかし,6世紀後半,蘇我氏の配下を先頭に神門川上流から南下した軍勢と,日本海上から宍道湖北西に進出した物部氏の軍勢とによって,しだいに制圧された。出雲に進出したヤマト国家の軍勢は,ついで意宇平野の東の伯太川・飯梨川の下流域もおさえて,意宇の王を東西から制圧していった。この結果,出雲地域国家の王はヤマト国家の朝廷のもとの国造(くにのみやつこ)となった。その服属の時期は,《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみえるところから,6世紀末ごろであったらしい。律令制下の出雲国は,出雲地域国家を継承したが,中央から来任する国司とは別に出雲国造が任じられて,出雲大社・熊野神社をはじめ国内諸社の祭祀に当たりつづけた。この点,出雲国の特殊性を物語っている。出雲国には意宇,島根,秋鹿,楯縫,出雲,神門,飯石,仁多,大原の9郡がおかれ,10世紀前半までに意宇郡東部を割いた能義郡が加わった。出雲国に来任した国司で最初に確認できるのは708年(和銅1)の忌部子首(いんべのこおびと)である。彼は天武朝に帝紀・上古諸事を記定した一人であり,このことは,記紀の出雲神話の構成や撰述の考察に示唆するところが多い。たとえば,記紀の国譲り神話は,上述の出雲服属の経緯を変形して述作されたものと考えられるが,これに忌部子首の関与した形跡が強いのである。出雲における律令政治の拠点であった国庁跡は,発掘調査され,松江市大草町に復元保存されている。国分寺・尼寺は松江市竹矢町に遺跡が残っている。なお,〈いずも〉の語源には,出ず雲,いつ(厳)も(面),いつ(厳)も(藻)に発するとする諸説がある。
執筆者:門脇 禎二
出雲国における古代から中世への移行は,11世紀中ごろにおける中世一宮制の成立をもってその一つの徴証とすることができる。1062年(康平5)の史料に杵築大社が出雲国を代表する神社(出雲大社)として見え,かつこれ以後一国平均役による造営が行われるに至ったのがそれで,中世出雲国一宮制はこの後,13世紀初頭に〈国中第一之伽藍〉たる鰐淵(がくえん)寺との相即関係をもってその特異な形での体制的確立をみた。古代的伝統とその上に立つ在地支配秩序の固有の変革過程がそこに示唆されているといえよう。1107年(嘉承2)源義親による出雲国目代殺害,官物強奪などの反乱が起こり,追討使平正盛によってようやく鎮圧された。以後出雲国は平家の勢力下におかれ,治承・寿永の内乱の際にも出雲国人はいずれも平家方として動いた。出雲八所八幡と称される安田別宮以下8ヵ所の石清水八幡別宮が,平安末期ほぼ時を同じくして勧請されたのもこうした情勢を踏まえてのことであったと推定される。平安期の荘園所領として史料的に確認できるのは,摂関家領宇賀荘・富田荘・林木(はやしき)荘・福頼荘・吉田荘,安楽寿院領佐陀(さだ)荘,成勝寺領飯石荘・揖屋(いや)荘,左近府領母里荘,八条院領大原荘・来海(きまち)荘,蓮華王院領加賀荘,賀茂社領福田荘,坊城二位家領杵築大社等である。中世出雲国は山陰道の中にあって,伯耆とともに比較的荘園の発達した地域に属すといってよいが,1271年(文永8)の《杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳》によってみると,この当時の荘園は約50ヵ所の多数を数え,その田数はわずかながら国衙領を上回っている。荘園領主(本家・領家)についてみると,皇室領荘園が比較的多いところに特徴があり,この点承久の乱が出雲国に与えた影響にはかなり大きなものがあったと推定される。承久の乱後の新補地頭では,伊北氏(福田荘・猪布(いう)荘・飯野荘・大西荘),江戸氏(安田荘),諏訪部氏(三刀屋(みとや)郷),中沢氏(淀本(よどほん)荘),松田氏(安来(やすき)荘)等が確認されるにすぎないが,実際にはもっと多かったと思われる。
承久の乱後佐々木義清が出雲国守護に任じられ,南北朝の一時期山名氏に取って代わられたとはいえ,中世末期に至るまでの近江佐々木氏による出雲国支配の端緒がここに開かれた。守護佐々木氏による出雲国支配は,義清の子泰清とその子頼泰の代に飛躍的な発展を遂げた。前後約40年の長きにわたって在職した泰清は,その後半神門郡塩冶郷に大迫城を築いてここに拠ったと推定され,頼泰以後塩冶(えんや)氏を称するとともに一族庶子が広く国内各地に蟠踞(ばんきよ)した。国造出雲氏が鎌倉幕府御家人に列せられ,また鰐淵寺が守護勢力との密接な連携を保つに至ったのも,ともに泰清との政治的結合を踏まえてのことであった。さきの文永8年結番帳によってみると,この当時守護佐々木氏ならびにその一族の所領は塩冶郷をはじめ富田荘,美保関郷など十数ヵ所500町余にも及び,出雲国内における最大の勢力を誇っている。佐々木氏に次ぐ勢力をもつものとしては,在庁官人の筆頭に位置する朝山氏以下三刀屋(諏訪部)氏,三沢氏,松田氏,赤穴氏,牛尾(中沢)氏および国造出雲氏等があった。南北朝内乱期,塩冶高貞が室町幕府との矛盾を深めて没落した後,佐々木道誉,山名氏等を経て明徳の乱(1391)後は京極高詮以下の佐々木京極氏によって守護職が相伝されることとなった。守護高詮は一族の尼子持久を守護代に任命して出雲に下向せしめ,これを富田城に入れて国人・土豪層の掌握につとめた。しかし,その領国支配はきわめてルーズな国人掌握の域をこえることができず,また段銭免除などの国人懐柔策がかえって国人層の自立と離反を招くことにもなった。
1467年(応仁1)に始まる応仁の乱を契機として出雲国内では山名党と守護代尼子方との激しい戦闘が展開された。時の守護代尼子清定は十神山城松田氏をはじめ,三沢氏,神西氏等の反守護勢力を制圧し,1470年(文明2)ころにはほぼ国内を平定した。清定から家督を相続した経久は84年公然と守護に反抗し,荘園侵略や段銭緩怠などを強行するに至った。このため同年守護代職を剝奪され富田城を追われたが,2年後にはこれを奪回し,たちまちのうちに山陰の雄と称される戦国大名へと成長していった。出雲の国衆が強力な国人一揆によって対尼子連合戦線を組む動きを示さなかったこと,また尼子氏の側でも長年にわたる守護佐々木氏の領国支配の伝統の上に立って,もっぱら〈本領安堵・新恩給与〉の形で国人・土豪層の編成につとめたため,比較的スムーズに国人層以下の掌握が可能であったこと,これらが尼子氏の急速な成長を可能にしたものと考えられる。しかしこのことは同時に尼子氏の急速な没落を招く原因ともなった。16世紀初頭の最盛期出雲をはじめ11ヵ国に勢力を張ったといわれる尼子氏は,1541年(天文10)備後吉田での毛利軍との戦闘に敗れたあと急速に勢力を弱め,66年(永禄9)尼子義久は毛利軍の総攻撃を受けてその軍門に下った。この後山中幸盛等による尼子再興の試みが続けられたというものの,それも失敗に帰し,89年(天正17)には毛利氏による太閤検地が実施されて中世社会は終りを告げることになった。
執筆者:井上 寛司
1600年(慶長5)11月,関ヶ原の敗戦で長門国に退いた毛利氏に代わって,出雲・隠岐両国24万石の大守として,遠江国浜松から堀尾吉晴が入部した。御帳前18万6000石,内検27万8500石が出雲国の石高であった。吉晴は松江に築城して,中世以来の広瀬富田城より移り,松江に城下町をつくった。33年(寛永10)3代33年つづいた堀尾家は,嗣子がなく御家断絶となり,代わって京極忠高が若狭国小浜から転封してきたが断絶し,38年信濃国松本から松平直政を迎える。直政は出雲国で18万6000石のほかに隠岐国1万8000石も預けられた。出雲国の郡別では,島根郡50村2万2490石余,秋鹿(あいか)郡14村1万1708石余,楯縫郡15村1万2454石余,出雲(しゆつと)郡24村1万7802石余,神門(かんど)郡76村4万6135石余,飯石(いいし)郡29村2万6653石余,仁多郡43村1万6464石余,能義郡43村3万9037石余,大原郡58村3万0314石余,意宇郡36村2万9594石余で,合計すると388村25万2654石余となる。なお,66年(寛文6)初代松平直政の次男近栄に新田3万石を分けて広瀬藩を,三男隆政に新田1万石で母里(もり)藩を分家した。分封当初は蔵米支給であったが,84年(貞享1)から広瀬藩には能義郡のうち32村と飯石郡のうち24村を,母里藩には能義郡のうち17村を分割支配させた。出雲を代表する物産は木綿と鉄であったが,宝暦年間の《雲陽大数録》には,十六島(うつぷるい)海苔,真野梨,大庭(おおば)梨,艫島鰤(ぶり),松江鱸魚(すずき),松江蓴菜(じゆんさい),渡橋加儀茶,日御碕ワカメ,神西湖鯉鮒,吉田香茸,平田蕪(かぶ),八川草蕨,熊野茶,宍道湖鰻(うなぎ),中海雲丹(うに),岡本牛蒡(ごぼう),薦田芹(せり),野白(のしら)紙,一成蛤(はまぐり),片海海苔,関小鯛,大井芹,矢尾煙草などを記している。江戸期の地誌としては,藩儒の黒沢石斎による《懐橘談》(前編1653,後編1661)と,1717年(享保2)に藩主が命じて作らせた黒沢長顕と斎藤豊仙による《雲陽誌》がある。同書には出雲国10郡545ヵ町村の詳細が記してある。
執筆者:内藤 正中
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
島根県の東半部にあたる旧国名。宍道(しんじ)湖、中海(なかうみ)に流入する斐伊(ひい)川、飯梨(いいなし)川などの河川の下流域には沖積平野が開け、古代から農業生産力の豊かな土地であった。出雲を舞台とする神話が多く伝えられていることから、大化(たいか)前代の出雲地方に、大和(やまと)朝廷に拮抗(きっこう)する勢力が存在したのではないかとする説もあるが、現在のところ考古学的に実証することはできない。
733年(天平5)撰進(せんしん)された『出雲国風土記(ふどき)』によると、出雲国は意宇(おう)、島根、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲、神門(かんど)、飯石(いいし)、仁多(にた)、大原の9郡から成り立っているが、『風土記』以後、意宇郡から能義(のぎ)郡が分立して10郡となった。8世紀ごろ意宇郡の大領であった出雲国造(くにのみやつこ)は、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖先とする大化前代からの豪族で、律令(りつりょう)制下では郡司であるとともに、杵築(きづき)・熊野2大社の祭祀(さいし)をつかさどったが、798年(延暦17)郡司兼帯を禁じられ、杵築(出雲市大社町)に移って祭事に専念することになった。なお、律令制下の国府は今日の松江市大草町の六所(ろくしょ)神社付近にあった。
鎌倉期の守護は佐々木義清(よしきよ)の系統が任じられたが、義清の孫頼泰(よりやす)は塩冶(えんや)(出雲市)に居を構えて塩冶姓を称した。南北朝期に入り、守護塩冶高貞(たかさだ)が失脚すると、かわって京極(きょうごく)(佐々木)高氏(たかうじ)(導誉(どうよ))が守護となった。一時山名(やまな)氏に奪われたが、明徳(めいとく)の乱(1391)後、ふたたび京極氏に還補(げんぽ)され、守護代として一族の尼子(あまご)氏が富田(とだ)城(安来(やすぎ)市広瀬町)に入城した。尼子経久(つねひさ)は応仁(おうにん)の乱(1467~1477)を契機として、京極政経(まさつね)の守護権力を排除して戦国大名に成長し、16世紀前半には山陰・山陽2道に勢力を拡大した。しかし、尼子義久(よしひさ)の代に至って安芸(あき)(広島県)の毛利(もうり)氏の攻撃を受け、1566年(永禄9)滅亡し、以後出雲は毛利の支配下となった。
関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入国、松江城を築いて本拠を広瀬から松江に移した。堀尾氏とそのあと入部した京極氏は、ともに嗣子(しし)がなかったので断絶、1638年(寛永15)松平直政(なおまさ)が18万6000石の藩主として入部し、以後幕末まで松平氏の支配が続いた。その間、広瀬3万石、母里(もり)1万石の支藩を分出した。1871年(明治4)廃藩置県により松江、広瀬、母里の各県が誕生したが、同年11月これらを合併し、隠岐(おき)もあわせて島根県が成立した。その後、島根県域には変動があったが、1881年に旧出雲、石見(いわみ)、隠岐の3国域となり、現在に至っている。
[藤岡大拙]
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山陰道の国。現在の島根県東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では能義(のぎ)・意宇(おう)・島根・秋鹿(あいか)・楯縫(たてぬい)・出雲・神門(かんど)・飯石(いいし)・仁多(にいた)・大原の10郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は意宇郡(現,松江市)。一宮は杵築(きづき)大社(出雲大社)。「和名抄」所載田数は9435町余。「延喜式」では調庸として絹・帛など。出雲神話などから知られるように,古くから独自の文化圏を形成し,律令制下でも出雲国造が任命され,代替りごとに天皇に神賀詞(かんよごと)を奏上するなど,特殊性が保持されていた。中世には近江国佐々木氏が守護となり,応仁・文明の乱後は守護代尼子氏が君臨,16世紀後半には毛利氏の領国となる。近世は堀尾氏・京極氏が松江藩主として一国支配。のち徳川家康の孫松平直政が松江藩主となり,隠岐国も兼領した。以後,支藩の広瀬藩・母里(もり)藩とともに廃藩置県に至る。1871年(明治4)隠岐をあわせて島根県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。だからこそ〈天孫〉によって平定されるわけであるが,その際にこの中国を代表する舞台として〈出雲〉が選ばれたのは,出雲国が聖なる中心地である大和からみて日の没する西の辺境に位置したからであり,神話的には黄泉国に接するとされたからである。中国は当時の人々の生活空間や王権のあり方と密接に関連し,大和王権と〈出雲〉によって代表される国々との政治的関係を,天上と地上,中心と周辺といった神話的秩序によって表現したところに成立した。…
※「出雲国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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