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出雲国 いずものくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

出雲国
いずものくに

現在の島根県東半部。山陰道の一国。上国。『日本書紀』『古事記』および『出雲国風土記』に記された出雲神話の舞台。出雲国には畿内や山陽の吉備地方にみられる大型の前方後円墳はまったくなく,出雲文化圏ともいうべき特色も見出せない。国府は松江市大草町,国分寺は松江市竹矢町(→出雲国分寺址)。『延喜式』には能義郡(のぎぐん),意宇郡(おうぐん),秋鹿郡(あいかぐん),島根郡,楯縫郡(たてぬひぐん),出雲郡,神門郡(かんどぐん),大原郡,仁多郡,飯石郡の 10郡があり,また神社については『延喜式』神名帳で 187社(『出雲国風土記』には官社 184社),『出雲国風土記』にはこのほかに国社として 215社が数えられ,合計すると 399社となる。『和名抄』は郷 79,田 9435町余を記載。鎌倉時代には近江の佐々木氏が守護として入国。室町時代には京極氏(佐々木氏)と山名氏とが争い,戦国時代には京極氏の一族尼子氏が支配したが,永禄9(1566)年毛利氏に滅ぼされた。江戸時代には堀尾氏,京極氏が領有したが,寛永15(1638)年,松平直政が信州松本から移り松江藩となった。このほかに松平家の分家である広瀬藩,母里藩(もりはん)があり,幕末にいたる。明治4(1871)年7月,廃藩置県により 3藩はそれぞれ県となったが,同年 11月に併合されて,島根県となった。

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デジタル大辞泉の解説

いずも‐の‐くに〔いづも‐〕【出雲国】

出雲

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百科事典マイペディアの解説

出雲国【いずものくに】

旧国名。雲州とも。山陰道の一国。現在島根県東半部。古くから開け,神話にも大きな役割を占める。《延喜式》に上国,10郡。中世,佐々木氏・尼子氏の支配後,毛利氏の領有。
→関連項目島根[県]中国地方横田荘

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いずものくに【出雲国】

現在の島根県東部を占めた旧国名。出雲神話の舞台となった地で、古くは出雲臣(いずものおみ)、出雲国造(くにのみやつこ)が支配。律令(りつりょう)制下で山陰道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府は現在の松江市大草町、国分寺は同市竹矢(ちくや)町におかれていた。鎌倉時代から南北朝時代にかけての守護佐々木氏、のち佐々木道誉(どうよ)(京極高氏(たかうじ))が守護となった。応仁(おうにん)の乱後は守護代の尼子(あまこ)氏戦国大名に成長したが、毛利氏に滅ぼされた。江戸時代は松平氏が領有した。1871年(明治4)の廃藩置県により島根県となり、鳥取県などとの統廃合を経て、1881年(明治14)に現在の島根県が成立した。◇雲州(うんしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

いずものくに【出雲国】

旧国名。雲州。現在の島根県の東部にあたる。
【古代】
 山陰道に属する上国(《延喜式》)。当初の地域的統一は,簸(ひ)ノ川(斐伊(ひい)川)・神門(戸)(かんど)川下流域に諸首長が併立した出雲西部よりも,意宇(おう)平野の首長が卓越的に台頭した出雲東部を中心にすすんだ。すなわち,東部には4世紀末から5世紀の方墳や前方後方墳が濃密な分布を示す特色ある古墳文化が発達し,《出雲国風土記》にだけみえる国引き神話もここではぐくまれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

出雲国
いずものくに

島根県の東半部にあたる旧国名。宍道(しんじ)湖、中海(なかうみ)に流入する斐伊(ひい)川、飯梨(いいなし)川などの河川の下流域には沖積平野が開け、古代から農業生産力の豊かな土地であった。出雲を舞台とする神話が多く伝えられていることから、大化(たいか)前代の出雲地方に、大和(やまと)朝廷に拮抗(きっこう)する勢力が存在したのではないかとする説もあるが、現在のところ考古学的に実証することはできない。
 733年(天平5)撰進(せんしん)された『出雲国風土記(ふどき)』によると、出雲国は意宇(おう)、島根、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲、神門(かんど)、飯石(いいし)、仁多(にた)、大原の9郡から成り立っているが、『風土記』以後、意宇郡から能義(のぎ)郡が分立して10郡となった。8世紀ごろ意宇郡の大領であった出雲国造(くにのみやつこ)は、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖先とする大化前代からの豪族で、律令(りつりょう)制下では郡司であるとともに、杵築(きづき)・熊野2大社の祭祀(さいし)をつかさどったが、798年(延暦17)郡司兼帯を禁じられ、杵築(出雲市大社町)に移って祭事に専念することになった。なお、律令制下の国府は今日の松江市大草町の六所(ろくしょ)神社付近にあった。
 鎌倉期の守護は佐々木義清(よしきよ)の系統が任じられたが、義清の孫頼泰(よりやす)は塩冶(えんや)(出雲市)に居を構えて塩冶姓を称した。南北朝期に入り、守護塩冶高貞(たかさだ)が失脚すると、かわって京極(きょうごく)(佐々木)高氏(たかうじ)(導誉(どうよ))が守護となった。一時山名(やまな)氏に奪われたが、明徳(めいとく)の乱(1391)後、ふたたび京極氏に還補(げんぽ)され、守護代として一族の尼子(あまご)氏が富田(とだ)城(安来(やすぎ)市広瀬町)に入城した。尼子経久(つねひさ)は応仁(おうにん)の乱(1467~1477)を契機として、京極政経(まさつね)の守護権力を排除して戦国大名に成長し、16世紀前半には山陰・山陽2道に勢力を拡大した。しかし、尼子義久(よしひさ)の代に至って安芸(あき)(広島県)の毛利(もうり)氏の攻撃を受け、1566年(永禄9)滅亡し、以後出雲は毛利の支配下となった。
 関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入国、松江城を築いて本拠を広瀬から松江に移した。堀尾氏とそのあと入部した京極氏は、ともに嗣子(しし)がなかったので断絶、1638年(寛永15)松平直政(なおまさ)が18万6000石の藩主として入部し、以後幕末まで松平氏の支配が続いた。その間、広瀬3万石、母里(もり)1万石の支藩を分出した。1871年(明治4)廃藩置県により松江、広瀬、母里の各県が誕生したが、同年11月これらを合併し、隠岐(おき)もあわせて島根県が成立した。その後、島根県域には変動があったが、1881年に旧出雲、石見(いわみ)、隠岐の3国域となり、現在に至っている。[藤岡大拙]

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世界大百科事典内の出雲国の言及

【葦原中国】より

…そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。だからこそ〈天孫〉によって平定されるわけであるが,その際にこの中国を代表する舞台として〈出雲〉が選ばれたのは,出雲国が聖なる中心地である大和からみて日の没する西の辺境に位置したからであり,神話的には黄泉国に接するとされたからである。中国は当時の人々の生活空間や王権のあり方と密接に関連し,大和王権と〈出雲〉によって代表される国々との政治的関係を,天上と地上,中心と周辺といった神話的秩序によって表現したところに成立した。…

※「出雲国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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