大原郡(読み)おおはらぐん

日本歴史地名大系 「大原郡」の解説

大原郡
おおはらぐん

面積:二四七・二一平方キロ
大東だいとう町・加茂かも町・木次きすき

旧出雲国中央部にあり、北は八束やつか宍道町・玉湯たまゆ町、松江市、東は八束郡八雲やくも村・能義のぎ広瀬ひろせ町、南は仁多にた郡仁多町、西は飯石いいし吉田よしだ村・三刀屋みとや町、出雲市、簸川ひかわ斐川ひかわ町に接する。郡域西端を斐伊川が北流し、木次町木次で久野くの川が、加茂町神原かんばらあか川が西流して斐伊川に合流する。これらの川の流域に平地が形成される。郡域西部を国道五四号・三一四号が南北に通じる。またJR山陰本線宍道駅から木次線が分れ、郡内を曲折しながら南へ下り、広島県の備後落合びんごおちあい駅へ向かう。

〔古代〕

「出雲国風土記」の郡名伝承に「郡家の東北一十里一百一十六歩に、田一十町許ありて、平原なり。故、号けて大原と曰ふ」とあり、「和名抄」東急本国郡部では「於保波良」とよむ。出雲国庁跡出土木簡に「大原評」、長屋王家木簡に「出雲国大原郡矢代里」とみえる。風土記は神原かんばら屋代やしろ屋裏やうち佐世させ阿用あよう海潮うしお・来次・斐伊ひいの八郷を載せる。郡家は風土記の記載によれば、もと現大東町前原まえばら土居どい辺りにあったが、風土記の時代には斐伊郷(現木次町里方・山方辺り)にあった。天平五年(七三三)時の郡司は大領外正六位上勲一二等勝部臣虫麻呂、少領外従八位上額田部臣伊去美、主政無位日置臣、主帳無位勝部臣が知られる。天平六年の出雲国計会帳(正倉院文書)に大原郡人日置首や、大原郡屋裏郷賀太里戸主額田部宇麻戸口額田部羊の名がみえる。大原郡家から意宇おう郡へは木垣きがき(現大東町畑鵯から宍道町和名佐への遠所越)仁多郡へは辛谷からたに(現大東町下久野と仁多町の境の樋の谷)飯石郡へは斐伊河を越え、出雲郡へは多義たぎ(現斐川町上阿宮)を経て、それぞれ道が通っていた。東大寺大仏殿廻廊西地区出土木簡に、「大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂」とみえる。

「延喜式」神名帳には小一三座が記され、宇能遅神社(風土記では宇乃遅社、現加茂町宇治の宇能遅神社に比定)、同社坐須美禰神社(風土記では汗乃遅社、現加茂町宇治の宇能遅神社に合祀)、神原神社(風土記では神原社、現加茂町神原の神原神社に比定)、八口神社(風土記では矢口社、現加茂町神原の八口神社に比定)、御代神社(風土記では御代社、現加茂町三代の御代神社に比定)、布須神社(風土記では布須社、現加茂町延野の布須神社に比定)、斐伊神社(風土記では樋社、現木次町里方の斐伊神社に比定)、同社坐斐伊波夜比古神社(風土記では樋社、現木次町里方の斐伊神社に合祀)、来次神社(風土記では支須支社、現木次町木次の来次神社に比定)、加多神社(風土記では加多社、現大東町大東の加多神社に比定)、佐世神社(風土記では佐世社、現大東町下佐世の佐世神社に比定)、西利太神社(風土記では世裡陀社、現大東町清田の西利太神社に比定)、海潮神社(風土記では得塩社、現大東町南村の海潮神社に比定)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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