愛藤寺城跡(読み)あいとうじじようあと

日本歴史地名大系 「愛藤寺城跡」の解説

愛藤寺城跡
あいとうじじようあと

[現在地名]矢部町白藤 下町口

相藤寺あいとうじ集落の南方緑川千滝せんたき川の峡谷によって囲まれた天然要害の丘陵上にある。舞鶴城ともいう(事蹟通考)本丸ほんまる二の丸にのまる三の丸さんのまる城門じようもんなどの地名が残る。貞応元年(一二二二)阿蘇大宮司惟次が天台宗愛藤寺を他所に移して築城したと伝えられ、天正年間(一五七三―九二)は阿蘇家家臣犬飼備前守、小西氏時代には結城弥平次が城代となり、加藤氏時代は長尾豊前守善政(安右衛門)・加藤万兵衛正直が三千石を領して当城と岩尾いわお城を兼帯した(「古城考」「国誌」など)。慶長一七年(一六一二)破却された。破却後の材木で熊本の花畑はなばた(熊本市の→花畑館跡広間を作ったといわれ、また城門は万坂の明光まんざかのみようこう寺に移動させたと伝えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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